
ヴェルサイユ行進(1789年10月)や八月十日事件(1792年8月)は、確かにフランス革命を語るうえで欠かせないエピソードです。しかし、これらが江戸城の「無血開城」と異なり暴力を伴ったのには、いくつかの理由があります。
まず第一に、フランス革命当時の民衆の怒りの規模と性質が挙げられます。
ヴェルサイユ行進では、パンの価格高騰や飢餓に苦しむパリの女性たちが王妃マリー・アントワネットに直接抗議しようと動き出しました。彼女たちが武器を手にした背景には、長年にわたる絶対王政への不満や生活苦が重なっていたのです。そして八月十日事件においては、王政廃止を目指すジャコバン派の扇動により武装した民衆がテュイルリー宮殿を襲撃しました。これらは、単なる抗議活動ではなく、根本的な社会変革を求める「暴動」だったと言えます。
テュイルリー宮殿襲撃/1793年
1793年、テュイルリー宮殿襲撃の様子を描いたジャック・ベルトーの絵画。王宮を守護していた大勢のスイス傭兵が犠牲になり、この革命が無血開城とはほど遠かったことを象徴する事件といえる。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
次に、江戸時代の政治文化とフランス革命期の政治文化の違いもポイントです。江戸城開城の際、日本では武士階級が体制変化に伴う流血を避けるべく交渉を重視しました。一方フランスでは、絶対王政の崩壊過程において、民衆がすでに権力者との妥協を拒む段階にまで来ており、特に八月十日事件では「妥協する者は敵」という過激な空気が支配的でした。
つまるところ、革命期のフランスでは、権力を象徴する存在や施設を力で押し倒すことが正義とされる風潮があったのです。こうした背景が無血開城を不可能にした理由の一つなのです。このように、フランス革命と江戸城開城の違いを考えると、文化的背景や民衆の心理の差が重要だったといえるでしょう。
江戸無血開城とは
江戸無血開城は、1868年(慶応4年)に江戸城が新政府に明け渡された事件です。徳川慶喜が新政府に対して抵抗せず、城を無血で引き渡すことで決定した出来事として知られます。この事件には西郷隆盛と勝海舟との間で行われた交渉が背景にあり、彼らの会談によって、徳川家が生き残りを許される条件である徳川慶喜の水戸での謹慎、城の明け渡し、徳川家の軍艦と武器の引き渡しなどが、無血にて合意されました。新政府軍による江戸への大規模な攻撃を避け、多くの市民の命を救った重要な事件とされています。