
フランス革命って、民衆が王政を打倒した革命というイメージが強いですが、その一方で「反革命派」と呼ばれる人たちもいたと聞きました。具体的にはどんな人たちで、どういう立場から革命に反対していたのでしょうか?とくに「人物」にフォーカスして、象徴的な存在をひとり紹介してもらえると嬉しいです。彼らの行動や思想が、その後のフランスやヨーロッパにどんな影響を残したのかも気になります。
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フランス革命期において「反革命派の象徴的人物」といえば、なんといってもアルトワ伯シャルルの存在が外せません。彼は後にシャルル10世としてフランス王に即位することになる人物で、革命に強硬に反対した王族の筆頭格とされています。
アルトワ伯は、ただの王族ではありませんでした。ルイ16世の弟であり、しかも革命が始まるといち早く国外へ逃れ、王政を守るために他国の支援を求めて活動します。いわば「亡命王族」という立場から、革命の流れを外側から食い止めようとした存在だったんです。
アルトワ伯シャルルは、1789年の三部会の招集やその後の政治の混乱を目の当たりにして、「これはフランスが崩れてしまう」と危機感を募らせました。そして革命が暴力的な展開を見せはじめると、真っ先に亡命を決意。主にイギリスやドイツ、オーストリアなどの君主国をめぐりながら、他国の王と手を組んで革命勢力に圧力をかけようとしたのです。
この動きは単なる逃亡ではなく、フランス国外から王政復活の火を絶やさないための、ある種の「外交戦争」でもありました。アルトワ伯はヨーロッパ各国の君主に「王家の危機」を訴え、フランスに対する軍事的介入を促す活動を精力的に行っています。
アルトワ伯シャルルの肖像
ヘンリ・ピエール・ダンルーによる肖像画。フランス革命における反革命の立場をとった人物で、後のシャルル10世。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
亡命中のアルトワ伯は、単なる傍観者ではなく、国内外の王党派(ロイヤリスト)にとっての心の拠り所でした。フランス国内にもまだ王政を支持する人々はいて、彼らは地下組織として密かに動いていましたが、その多くがアルトワ伯に希望を託していたのです。
また、彼は1795年に処刑されたルイ16世の息子(ルイ17世)が亡くなった後、王党派の間で「名目的な王位継承者」とみなされるようになり、その存在はますます重みを増していきました。ブルボン王家の正統性を象徴する存在として、王政復古を夢見るすべての人々にとって、アルトワ伯は欠かせない存在だったんです。
もちろん、その影響力はフランス国内にとどまりません。反革命のムーブメントは他のヨーロッパ諸国にも広がり、保守派勢力が革命の拡大を警戒するきっかけにもなりました。
ナポレオンが失脚した1814年、ついにフランスにはブルボン家の復古王政が訪れます。まずは兄のルイ18世が王位に就き、アルトワ伯はその後を継ぐ形で1824年にシャルル10世として即位。ついに「反革命派のリーダー」が実際の国王になった瞬間でした。
ただし、彼の政治姿勢はかなり保守的で、まるで革命以前に時計を戻すかのような政策を推し進めたため、国民とのあいだにまたもや軋轢が生まれてしまいます。そして1830年、シャルル10世は七月革命によって退位に追い込まれ、ふたたび亡命の道をたどることになります。
つまり彼の生涯は、「革命を否定し続けた人物が、結局は新しい時代に追いつけなかった」という象徴的なストーリーでもあるのです。
このようにアルトワ伯シャルル(シャルル10世)は、フランス革命における反革命の象徴的存在であり、王政を取り戻そうとした亡命貴族たちの希望でした。
彼の活動は一国の話にとどまらず、革命に揺れるヨーロッパ全体に「変化の波を止めたい」という保守派の共通の想いを呼び起こし、各国の対応にも大きな影響を与えました。
そしてその最期は、古い価値観にしがみつくことの限界を浮き彫りにしたとも言えます。アルトワ伯の生涯は、革命がもたらした激動の時代をまさに体現するものでした。
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