フランス革命政府はなぜオーストリア宣戦を行った?

フランス革命政府はなぜオーストリア宣戦を行った?

フランス革命政府は国外からの干渉と国内亡命貴族の脅威に直面した。国威発揚と革命理念の拡大を狙い、オーストリアに先制攻撃を仕掛けたのである。本ページでは、フランス革命政府がオーストリアに宣戦した背景を理解する上で重要なこのテーマについて、さらに詳しく掘り下げ解説していく。

フランス革命政府が1792年にオーストリアへ宣戦布告したとき、なぜ自ら戦争を始めるような危険な決断をしたのでしょうか?オーストリアは確かに王政を守ろうとしていたようですが、当時のフランスはまだ国内問題も山積みだったはずです。革命政府の中でどんな議論があり、どんな思惑が重なってこの宣戦布告につながったのかを詳しく知りたいです。



1792年4月20日、フランス革命政府はオーストリアに宣戦布告しました。これは革命戦争の幕開けであり、同時にフランス国内外の政治情勢を大きく変える決断でした。この行動の背景には、単なる防衛や報復だけではなく、国内政治の思惑・革命の拡大・敵国への不信感といった複数の要因が絡み合っていたのです。


背景1:オーストリアへの根強い不信感

オーストリアはマリー・アントワネットの母国であり、皇帝レオポルト2世は彼女の兄でした。1791年のヴァレンヌ逃亡事件で王家が国外脱出を試みた際、背後で支援していたのではないかという疑惑が広まり、フランス国内ではオーストリアへの警戒感が一気に高まります。


さらに同年8月、レオポルト2世とプロイセン王が発表したピルニッツ宣言は、ルイ16世の権力回復を支援する姿勢を示し、革命派にとっては「王政を押しつけるための軍事的脅し」に映りました。この宣言が、フランス国民の対外不信を決定的にしたのです。


レオポルト2世の肖像

神聖ローマ皇帝レオポルト2世の肖像、アントン・ヒッケル作
ヴァレンヌ逃亡事件を受け、妹であるマリーアントワネット王妃の身を案じピルニッツ宣言を出すも、それが革命戦争の原因になった。
(出典:Creative Commons Public Domainより)


背景2:国内政治の混乱と戦争での結束狙い

1792年当時、フランス国内はまだ不安定でした。立憲君主制のもとで国王ルイ16世は依然として存在し、王党派(反革命派)も力を持っていました。さらに経済は混乱し、食糧不足や失業で民衆の不満は高まっていました。


この状況で、革命政府の中には「外敵との戦争を利用して国内を団結させる」という考え方が広がります。特にジロンド派の指導者たちは、戦争によって王党派をあぶり出し、同時に国民の愛国心を高められると考えました。


また、ルイ16世自身も密かに戦争を望んでいた節があります。彼は、戦争でフランスが敗れれば自分の権力が回復する可能性が高いと計算していたとされます。つまり、王と革命派の双方が、別々の理由で戦争を望んでいたのです。


背景3:革命をヨーロッパに広めたいという野心

一部の革命派は、防衛だけでなく革命思想の輸出を強く意識していました。「自由・平等」の理念を外国にも広げ、王政を打倒して共和制を支持する勢力を増やせば、ヨーロッパの政治地図を塗り替えられるという発想です。


特にジロンド派の多くは「オーストリアの人々も我々を解放軍として歓迎するだろう」と楽観的に考えており、戦争を通じて革命を拡大できると信じていました。結果として、この過信は後の軍事的苦戦につながりますが、当時は自信に満ちていたのです。


フランス革命政府がオーストリアに宣戦したのは、外圧への恐れ・国内の政治的計算・革命の拡大願望が複雑に絡み合った結果でした。


オーストリアへの不信感はヴァレンヌ事件とピルニッツ宣言で決定的となり、国内では戦争が政治的な武器として利用され、さらに理想主義的な野心も加わりました。この一手が、フランスを長く続く革命戦争とヨーロッパ全土の激動へと引き込むことになったのです。