フランス革命に対してどのような外国の動き・干渉があったの?

フランス革命に対してどのような外国の動き・干渉があったの?

フランス革命はオーストリアやプロイセンを中心とする対仏同盟を生み、戦争へと発展した。干渉は軍事行動だけでなく、外交封鎖や宣伝工作にも及んだのである。本ページでは、フランス革命期の外国干渉の全体像を理解する上で重要なこのテーマについて、さらに詳しく掘り下げ解説していく。

フランス革命が進行していたとき、他の国々がどんな反応を示したのかが気になります。国内の出来事に見えるけれど、実際には外国からの干渉も多かったと聞きました。具体的には、どんな国がどんな行動を起こして、革命にどう関わったのでしょうか?戦争や外交上の対立など、革命を取り巻く国際的な動きについて詳しく教えてください。



フランス革命は、国内の王政を打倒しただけでなく、その理念と衝撃が国境を超えて広がっていく過程でもありました。そのため、ヨーロッパの他国が次々と関与し、時には武力によって、時には外交で、フランスに干渉するようになっていきます。


オーストリアとプロイセンの連携から始まった干渉

革命当初は「フランスの内輪揉め」と距離を置いていたヨーロッパ諸国も、ルイ16世とマリー・アントワネットの立場が危うくなるにつれて、黙っていられなくなっていきます。とくにマリーはオーストリア皇帝の妹でもあり、皇室の一大事と受け止められたんです。


1791年のピルニッツ宣言を皮切りに、プロイセンとオーストリアは「ルイ16世の権力を回復させる」として軍事介入をほのめかします。これはフランス側から見ると、「王政を無理やり戻そうとする外圧」にしか見えず、ますます国民の反感を買いました。


そして1792年、ついにフランスはオーストリアに宣戦布告。プロイセンも参戦し、革命政府との間で革命戦争が始まります。


ヴァルミーの戦いで見せた「市民軍の底力」

外国の軍勢がフランス国内に進軍し、首都パリまで迫るなかで、革命政府は国民全体に祖国防衛の呼びかけを行います。徴兵によって集められた市民軍は、訓練不足ながらも士気が高く、「自分たちの政治体制を守るんだ」という熱意にあふれていました。


そんな中で起きたのが、1792年9月20日のヴァルミーの戦い。プロイセン軍に対してフランス革命軍が初めて本格的な勝利を収めたこの戦いは、軍事的な意味だけでなく、精神的な勝利としても極めて大きな意味を持ちました。


この勝利によってフランス国内では「やればできる!」という空気が一気に高まり、翌日にはついに王政の廃止共和政がスタートすることになるのです。


ヴァルミーの戦い 1792

ヴァルミーの戦い、1792年9月20日
フランス革命軍がオーストリア・プロイセン同盟軍を破った戦い。外国の干渉を退けることに成功した象徴的な勝利であり、フランス国内での革命政府の正当性を大いに高めた。
(出典:Creative Commons Public Domainより)


その後も広がった国際的な対立

ヴァルミーでの勝利は一時的なものにすぎず、フランスはその後も複数の国と戦い続けることになります。イギリスやスペイン、オランダなども加わり、第一回対仏大同盟が結成。フランスはほぼヨーロッパ中を敵に回す形での長期戦に突入していきます。


その一方で、革命政府も「革命の理念を広める」という目的のもと、積極的に他国への干渉も始めるようになります。各地の王政を打倒し、共和制を支援しようとする動きは、ナポレオンの登場とともにさらに加速していきます。


こうしてフランス革命は単なる内乱ではなく、ヨーロッパ全体を巻き込んだ構造的な衝突へと変貌を遂げていったのです。


フランス革命に対する外国の干渉は、王政を守りたいという単なる同情心からではなく、自国の安定と体制を守るための「恐れ」に根ざしていたことがわかります。


ヴァルミーの戦いのように、フランスが外国の軍に勝利するたびに、革命の意義や熱量が強まっていきました。干渉が逆に革命を加速させる結果になったというのも、歴史の面白いところですね。