
フランス革命を学んでいると、やっぱり一番気になるのは「なぜ、こんなに大きな革命が起きたのか?」という始まりの部分です。王様がいた時代から共和制の国へと激変した背景には、どんな事情や出来事があったのか──きっかけになった社会の不満や思想の変化、そして人々の行動まで、発端に迫るストーリーをわかりやすく教えてください!
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フランス革命の発端は、積もりに積もった不満がついに爆発した「庶民の反乱」でした。重い税金、特権階級への怒り、生活の苦しさ、そして新しい考え方の登場──これらが一気に火をつけたんです。
はじめは「なんとかしてくれ!」という訴えからだったのに、あれよあれよという間に王政を倒す大革命へと発展していきました。
18世紀末のフランス、国の財政はボロボロでした。原因はというと、贅沢な宮廷生活、無駄な戦争(とくにアメリカ独立戦争への支援)、そして不公平な税制度。王様のルイ16世は「なんとかしなきゃ」と思ったものの、肝心の改革は進まないまま。
一方で、税金を払っていたのはほぼ第三身分(=庶民)だけ。貴族や聖職者は特権で免除され、庶民だけが苦しい思いをしていたんです。
さらに1788年ごろから気候不順で農作物の収穫が激減。パンの価格が高騰し、「食べるものもない」なんて声が全国にあふれました。国民の怒りは限界寸前。そんな中、国王は解決策として「三部会」という議会を久しぶりに開いたのですが……ここでさらに問題が。
第三身分が「自分たちの意見が全然通らないじゃないか!」と猛反発し、独自に「国民議会」を立ち上げたことで、事態は一気に政治の対立へと発展していったんです。
庶民の怒りが爆発した象徴的な出来事──それが1789年7月14日のバスティーユ牢獄襲撃です。この日、パリの民衆は「王政に抵抗するぞ!」という意思をはっきりと示しました。
この牢獄は、実際には収容人数も少なく、軍事的にもそんなに重要な場所ではなかったんですが、「圧政の象徴」として狙われたんです。襲撃の背景には、「国王が軍隊で国民議会をつぶそうとしている」という不安もあり、パリ中の人々が武器を手に立ち上がったんですね。
バスティーユ襲撃/ジャン=ピエール・ウエル作
フランス革命の号砲となったバスティーユ牢獄襲撃事件を描いた絵画。中央には牢獄司令官を務めたド・ローネーが連行される姿が描かれている。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
この襲撃をきっかけに、全国各地で農民たちの反乱(「大恐怖」と呼ばれる)が広がり、貴族の館が襲われたり、封建的な記録が焼かれたりしました。革命の炎は一都市の出来事にとどまらず、あっという間に全国規模になっていったのです。
「おかしいことには声をあげてもいいんじゃない?」という空気をつくったのが、啓蒙思想です。ヴォルテールやルソー、モンテスキューなどの思想家たちが、「権力は分けるべき」「人間はみんな平等」といった考えを広めていきました。
とくにルソーの「社会契約論」は、「政府や王様は国民の合意のもとに存在する」という新しい考え方を打ち出し、多くの人々に影響を与えました。「国王の権力は神から与えられたものじゃない!」という視点は、それまでの常識を根底からくつがえすもの。
これにより、政治に参加する意識を持つ市民層が急増。「私たちにも決める権利がある」と多くの人が感じ始め、改革を「求める」段階から「自分たちで変える」段階へと移っていったんです。
こうして、経済的な苦しさ・政治の不満・思想の影響という三重苦のなかで、フランス革命は火を噴いたのでした。
このように、フランス革命の発端は、社会の深い不平等と不満が積み重なった末に、庶民たちの怒りと新しい考え方が結びついたことにあるんです。
バスティーユ襲撃という劇的な出来事はあくまで「引き金」に過ぎず、その背後には数十年にもわたる構造的な問題が横たわっていました。そしてこの革命の始まりは、フランスという一国にとどまらず、のちの世界の民主化運動へとつながる「目覚めの瞬間」でもあったのです。
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