
フランス革命の際、ロシアはどのように反応したのでしょうか?地理的にはやや距離がありますが、ヨーロッパの大国として革命の影響を無視できなかったと思います。エカチェリーナ2世の時代だったと聞きますが、彼女やロシア政府が革命に対してどのような立場をとり、どう関与したのかを教えてください。
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フランス革命に対するロシアの反応は、はっきり言ってかなり否定的で厳しいものでした。とくに当時の女帝エカチェリーナ2世は、ヨーロッパの啓蒙君主の一人とされながらも、フランス革命の急進的な動きには強い嫌悪感と警戒心を抱きます。ロシアの王政は、革命の理念と真っ向からぶつかる体制だったんです。
ロシア帝国を統治していたエカチェリーナ2世は、自身が啓蒙思想を好み、ヴォルテールやディドロらと書簡を交わしていたことで知られています。しかし、いざフランスで革命が始まり、実際に王政を打倒し、国王を処刑するような事態になると、彼女は180度態度を変えました。
エカチェリーナにとって、フランス革命は秩序の崩壊そのものであり、ヨーロッパ中に広がる危険な感染症のような思想だと考えました。実際、彼女はフランス革命の報道や関連書籍の流入を厳しく検閲し、ロシア国内での拡散を食い止めようとしています。
彼女は「自由」「平等」などの言葉を単なる理想ではなく、国家を混乱に陥れる扇動語として見ていたのです。
ロシア皇帝エカチェリーナ2世
ジョージ・クリストフ・グロートによる肖像画。革命思想がヨーロッパ全体の王政に対する脅威であると考え、フランス革命を非難した。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
ロシアは当時、絶対君主制のもとで貴族や農奴制が支配的な社会でした。そんな中で「国民が政治の主体になるべきだ」なんて思想が入ってきたら、国家そのものがぐらつく──そう考えたエカチェリーナは、革命思想の芽を徹底的に摘む方針を取ります。
フランス人のロシア入国は制限され、ロシア国内の知識人たちがフランス革命を支持するような発言をすれば、監視・拘束・追放の対象になりました。また、フランスとの外交関係も悪化し、1792年には正式に大使を召還して、事実上の断交状態に。
一方で、革命騒ぎに乗じて東欧でのポーランド分割をさらに進めるなど、外交的にはちゃっかり自国の勢力拡大も進めていたあたり、エカチェリーナの現実主義がうかがえます。
1796年にエカチェリーナ2世が死去すると、息子のパーヴェル1世が即位します。彼は母とは逆にナポレオンにある程度の好意を示し、フランスとの関係改善を模索しますが、これは国内の保守派の反発を招き、1801年には暗殺されてしまいます。
その後、即位したアレクサンドル1世の時代になると、ロシアはナポレオンとの対立に本格的に巻き込まれていき、ティルジット条約を経て一時的な同盟関係に入るも、最終的にはナポレオンとの全面戦争(ロシア遠征)へと突入します。
つまり、フランス革命に対する最初のロシアの反応は思想レベルでの拒絶と防衛でしたが、その後の展開は政治・軍事のリアルな駆け引きに発展していくことになります。
ロシアにとってフランス革命は、思想と秩序の両面からの深刻な挑戦でした。
エカチェリーナ2世は革命の理念を徹底的に排除しようとし、国内外で体制の安定を守ることに力を注ぎました。ロシアでは「自由」や「国民主権」といった言葉が歓迎されるどころか、危険思想として封じ込められていったのです。
しかしその後、ナポレオンとの関係を通じて、ロシアもまたヨーロッパの大激動に巻き込まれていくことになります。フランス革命は、地理的に離れたロシアにさえも、静かに、しかし確実に波紋を広げていたのです。
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