
フランス革命が起きたとき、ロシアはどんな反応をしたの?革命への関わりや、その後の行動について教えて!
ロシアはフランス革命(1789–1799)を強く警戒し、反革命の立場を取る国の一つでした。その背景には、絶対君主制を支えるロシア帝国の存在意義や、革命思想が自国へ波及することへの恐れがありました。ロシアの対応を詳しく見ていきましょう。
まず、ロシア女帝エカチェリーナ2世(1729–1796)は、フランス革命を「危険な暴動」として強く非難しました。啓蒙思想に一定の理解を示していたエカチェリーナも、革命が急進化し、特にルイ16世の処刑(1793年)や共和政の成立を目の当たりにすると、フランス革命をヨーロッパ全体の秩序を脅かす存在と見なしました。このため、エカチェリーナは革命を断固として拒否し、フランスとの外交関係を断絶しました。
ロシア皇帝エカチェリーナ2世
ジョージ・クリストフ・グロートによる肖像画。革命思想がヨーロッパ全体の王政に対する脅威であると考え、フランス革命を非難した。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
また、ロシアはオーストリアやプロイセンと連携し、反革命の軍事行動を支援しました。第一回対仏大同盟(1793年)の結成には直接的な参加を控えましたが、ヨーロッパ全体の反革命運動を支持し、フランスに対する孤立化政策を進めました。一方で、ポーランド分割問題などの自国の利益に注力する場面も多く、反革命の軍事行動に全面的に関与することはありませんでした。
ナポレオン時代に入ると、ロシアの対応はさらに重要な局面を迎えます。1799年には、ロシアは第二回対仏大同盟に参加し、フランス革命政府およびナポレオンに対抗しました。しかし、連合軍内での意見対立やロシア軍の大損失により、1801年にはアレクサンドル1世がフランスとの和平を模索する動きに転じました。
ロシアはフランス革命をヨーロッパ秩序に対する重大な脅威と見なし、強い反革命姿勢を示しましたが、独自の国益を優先する戦略的な動きも目立ちました。これらの行動は、フランス革命が単なる国内問題ではなく、ヨーロッパ全体に広がる大きな波紋を生んだことを象徴しています。