
フランス革命の象徴的な始まりといえば「バスティーユ牢獄襲撃」。でも、あの事件はどうして起きたの?単なる牢獄解放ではないはず。その目的や背景をわかりやすく知りたい!
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1789年7月14日のバスティーユ牢獄襲撃は、パリ市民が王政に対する不満を爆発させた瞬間であり、同時にフランス革命の号砲となった出来事です。この事件は「囚人解放」のためだけではなく、もっと切実で現実的な目的がありました。
当時のフランスは深刻な財政危機に加え、凶作によるパンの値上がりで庶民の暮らしが限界に達していました。さらに、国王ルイ16世が改革派の財務総監ネッケルを罷免したことで、「国王が武力で議会を解散させ、改革を潰すのではないか」という不安が広がります。パリの人々は自衛のために武装しようと決意しました。
ルイ16世期の財務総監・ジャック・ネッケル(1732 - 1804)
1789年7月11日に罷免され、民衆の怒りが高まり、バスティーユ襲撃へつながる引き金の一つとなった。
出典:Joseph-Siffred Duplessis (artist) / Wikimedia Commons Public domainより
武装するためには火薬と弾薬が必要でした。市内の武器庫で銃は確保できたものの、火薬はバスティーユ牢獄に保管されていました。当時のバスティーユは政治犯を収容する象徴的な要塞で、「王権による抑圧」のシンボルとしても人々の怒りを集めていたのです。つまり襲撃は、実用的な目的(火薬奪取)と象徴的な意味(専制政治への挑戦)の両方を兼ねていました。
市民たちは数時間に及ぶ激しい戦闘の末、ついに牢獄を占拠し、司令官ド・ローネーを捕らえてその場で処刑しました。バスティーユという「絶対王政の象徴」が崩れ落ちた知らせは瞬く間に全国へと広がり、各地で封建的支配への反乱が次々と火を噴くきっかけとなります。そして、この日――7月14日は、今もフランスの革命記念日(パリ祭)として祝われ続けているのです。
バスティーユ襲撃/ジャン=ピエール・ウエル作
フランス革命の号砲となったバスティーユ牢獄襲撃事件を描いた絵画。中央には牢獄司令官を務めたド・ローネーが連行される姿が描かれている。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
バスティーユは囚人の数こそ少なかったものの、「国王が気に入らない者を裁判なしで投獄できる場所」として恐れられていました。だからこそ、そこを市民が力で崩したことは王権の絶対性が打ち砕かれた瞬間を意味していたのです。
バスティーユ陥落のニュースはパリを越えて地方へと伝わり、農民たちが領主の館を襲撃したり、年貢の証文を焼き払ったりする「大恐怖(ラ・グランド・ペール)」へとつながっていきました。都市だけでなく農村まで巻き込むことで、革命は一部の運動ではなく全国規模の変革となっていきます。
ラ・グランド・ペール農民蜂起(1789)
流言と恐慌が広がり、農民が各地の城や荘園を襲撃して領主文書を焼き、貴族や廷臣が館を捨てて亡命する場面を描いた版画
出典:Philippe Joseph Maillart (author) / Creative Commons CC0 1.0より
7月14日が革命記念日に定められたのは、「圧政に立ち向かう市民の力」を象徴する出来事だったからです。今でもパリでは盛大な軍事パレードや花火が行われ、市民の団結と自由の精神を確かめ合う日となっています。こうしてバスティーユ陥落は、歴史の一事件を超えて現代フランスのアイデンティティを形づくる大切な記憶となっているのです。
まとめると、バスティーユ襲撃は「火薬を奪う」という現実的な目的と、「専制政治を打ち倒す」という象徴的な意味を兼ね備えた行動でした。牢獄そのものが軍事的に大きな価値を持っていたわけではありませんが、そこを崩したことは「王権に従う時代から、市民が政治を動かす時代への転換」を鮮やかに示した出来事だったんです。
まさにこの瞬間から、庶民の声が歴史を揺るがす大きな力となり、フランス革命という激動の時代が本格的に幕を開けたのです。
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