デュバリー夫人のフランス革命への関与とは?

デュバリー夫人のフランス革命への関与とは?

デュバリー夫人はルイ15世の公妾として宮廷の華やぎを象徴しつつも、革命前夜には政治的陰謀や対立の渦中にあった人物だ。王政崩壊の中で身の安全を求めて行動し、その一方で旧体制との結びつきが強く、民衆の反感を買う結果となったのである。本ページでは、フランス革命の宮廷政治や貴族社会の変容を理解する上で重要なこのテーマについて、さらに詳しく掘り下げ解説していく。

フランス革命の中で処刑された人物というと、マリー・アントワネットがすぐに思い浮かびますが、彼女以外にも貴族や王族に近い人たちが次々と命を落としたと聞きます。その中にデュバリー夫人という名前がありました。彼女は確かルイ15世の愛人だった人ですよね? 革命との関わりや、どうして処刑されることになったのか──当時の社会の空気とともに教えてください。



デュバリー夫人(ジャンヌ・ベキュ)は、ルイ15世の公妾(公式の愛人)として知られる人物で、革命前の宮廷社会を象徴する存在のひとりでした。豪華絢爛な暮らしぶりと庶民との生活格差が広がるなかで、彼女の存在そのものが旧体制(アンシャン・レジーム)の象徴と見なされるようになっていきます。


革命が進むにつれ、どれほど政治に関与していなかったとしても、王政とつながりが深い人物は「敵」とされる空気が強まっていきました。デュバリー夫人も、その流れに飲み込まれていくことになります。


王の寵愛を受けた女性としての出発点

もともと庶民の出自だったジャンヌ・ベキュは、知性と美貌でのし上がり、やがてルイ15世の最後の愛人となります。彼女の存在は公式に認められ、ヴェルサイユ宮殿の一角に自分の居室を持つほどでした。


宮廷ではマリー・アントワネットとの関係も話題になりますが、2人の間には緊張感があり、アントワネットはデュバリー夫人の存在を「下品で政治的に不適切なもの」と見なして距離を置いていたとされています。


ルイ15世の死後、彼女は宮廷を離れますが、贅沢な暮らしぶりや王政との結びつきは、民衆の反感を買い続けました。


革命に巻き込まれていく“過去の象徴”

フランス革命が始まると、王政と関係の深い人物たちは次々と標的にされていきます。デュバリー夫人もまた、かつての地位ゆえに「反革命的な人物」と見なされるようになりました。


直接的に政治に介入していたわけではありませんが、彼女のもとには国外の亡命貴族との接触や金銭のやり取りがあったとされ、それが反革命への資金援助と疑われたのです。


実際にはそれほど積極的な活動をしていた証拠はないとも言われていますが、革命の恐怖政治下では“象徴的な存在”が狙われることがよくありました。1793年、デュバリー夫人は反革命容疑で逮捕され、同年12月8日、パリでギロチンによって処刑されます。


デュバリー夫人の処刑への道

デュバリー夫人の処刑への道
フランス革命中にギロチンで処刑されるデュバリー夫人を描いた作品。
(出典:Creative Commons Public Domainより)


「贅沢の象徴」から「罪の象徴」へ

デュバリー夫人の処刑は、フランス革命の激しすぎる断絶の象徴とも言えます。彼女は政治家でも反乱者でもありませんでしたが、王政のもとで贅沢を享受した女性というだけで命を奪われました。


処刑の際、彼女が「お願いだから少しだけ……時間をください……」と泣き叫んだという記録が残っており、その姿は恐怖政治の非情さを物語る象徴的なエピソードとして語り継がれています。


後世の歴史家の間でも、彼女の処刑は「見せしめとしての意味合いが強く、理性的な裁きではなかった」とされています。つまり彼女は、「何をしたか」ではなく「何を象徴していたか」で裁かれた存在だったのです。


デュバリー夫人は、フランス革命の中で過去の“象徴”として裁かれた存在でした。


王の寵愛を受けたことで栄光を手にし、王政が崩れればその記憶ごと処刑される──彼女の人生は、まさにアンシャン・レジームから新時代への急激な断絶を体現しているかのようです。


彼女の最期を通じて見えてくるのは、革命の中で「人間」よりも「象徴」が重視されたという、もうひとつの側面なのかもしれません。