
フランス革命の流れを見ていると、国内の出来事だけでなく、周辺諸国との戦争や対立がどんどん激化していったのが気になります。中でも「対仏大同盟」というのが何度も結成されたようですが、なぜそんなふうに国同士が連携してまでフランスに立ち向かったのでしょうか?
イギリスやオーストリアなど、参加した国ごとに事情が違ったと思うのですが、それぞれの目的って何だったのか、背景も含めて知りたいです。
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対仏大同盟は、フランス革命がヨーロッパ中に広がることを恐れた周辺諸国が「フランス包囲網」を築いたものです。
革命によって国王が処刑され、共和制が誕生したことに、君主制を守る側の国々が強く反発。それぞれの事情を抱えながらも、「フランスの動きを止めなければ自国にも火の粉が降りかかる」と危機感を共有していたんです。
まず、革命のインパクトがあまりにも大きすぎました。
王政の打倒、貴族の追放、人権宣言──こうしたフランスの変化は、他国の民衆にも「自分たちも変われるかもしれない」という希望を与えてしまったんです。
それを一番恐れたのが、ヨーロッパの王侯たち。
「革命の波が自国にまで及んだら、自分たちの王座も危ないぞ」と感じた彼らは、フランスを孤立させ、圧力をかけて体制を崩壊させようとします。
そんな危機感のもと、最初の対仏大同盟は1793年、フランスがルイ16世を処刑した直後に結成されました。
同盟に加わった国々の思惑は、じつはバラバラです。
なかでも中心となったのが、イギリスの首相ウィリアム・ピット(小ピット)。彼はフランス革命の拡大を警戒しつつ、イギリスの海上貿易と植民地を守るという実利的な狙いも持っていました。
フランスが不安定になれば、イギリスの覇権を強化できるチャンスと見ていたんです。
オーストリアやプロイセンは、フランス国内の王族や貴族と血縁関係があることもあり、感情的にも「革命なんて許せない」という立場。
一方、スペインやナポリ王国などは、フランスの拡張主義に警戒して、自国の安全保障のために参加しました。
つまり「革命を止める」という名目のもと、それぞれが自国の利益を追いながら手を組んだというのが、対仏大同盟の実態なんです。
ウィリアム・ピットの肖像
対仏大同盟を組織し、フランスの革命運動を潰そうとしたイギリスの首相。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
実はこの「対仏大同盟」、1793年以降、七回も結成されることになります。
でも、連携は決してスムーズじゃありませんでした。
フランス側も粘り強く反撃し、特に1790年代後半になると、ナポレオン・ボナパルトという驚異的な軍人が登場。彼の軍事的成功により、同盟国は次々と敗れていきます。
さらに、同盟国内でも利害の対立や連携不足が目立ち、結束はいつも脆弱でした。
フランスの台頭を警戒しながらも、長期的には自国の勢力拡大を狙っていたため、信頼し合う関係とは言いがたかったのです。
それでも各国が対仏同盟に参加し続けたのは、それほどまでに革命フランスの動きがヨーロッパ秩序を根本から脅かすと感じられていたからなんですね。
このように、対仏大同盟は「革命の拡大を防ぐ」という共通の目標のもとに集まった、利害まみれの多国籍連合でした。
その結成には、イギリスの思惑や王族の連帯意識、植民地や貿易の利権など、さまざまな動機が絡み合っていたのです。
つまり、フランス革命は一国内の出来事にとどまらず、ヨーロッパ全体の体制やバランスを揺さぶった「国際的事件」でもあったわけですね。
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