フランス革命ってクーデターなの?

フランス革命ってクーデターなの?

フランス革命期の大衆蜂起と制度改革は並行して進んだが、その後の展開には権力掌握を狙うクーデター的要素も見られた。特にナポレオンの台頭は軍事的手段による政権移行の典型例であった。革命は必ずしも一枚岩の民衆運動ではなく、権力闘争の舞台でもあった。本ページでは、フランス革命期の政変の形式や権力移譲のメカニズムを理解する上で重要なこのテーマについて、さらに詳しく掘り下げ解説していく。

フランス革命って、王政を倒した大きな社会変革のイメージが強いですが、最後はナポレオンのクーデターで終わったとも聞きます。そうなると、あれは結局クーデターだったのか、それともやっぱり民衆革命だったのか──この辺りの線引きがよくわかりません。革命の始まりと終わりを比べると、何が「革命」で、どこからが「クーデター」なのか、その違いを教えてほしいです。



フランス革命全体をクーデターと呼ぶのは正確ではありません。1789年に始まったのは、民衆蜂起や議会改革を通して王政を廃止し、自由・平等の理念を打ち立てる社会的・政治的な大転換でした。しかし、その長い過程の最終局面、1799年11月9日(革命暦ブリュメール18日)に起きたナポレオン・ボナパルトの権力掌握は、典型的な軍事クーデターでした。


つまり、フランス革命は民衆革命の中で幕を閉じたクーデターという構図を持っていたのです。


革命の始まりは民衆と議会の動きから

1789年のバスティーユ牢獄襲撃や全国各地の農民蜂起、国民議会の特権廃止と人権宣言採択など、初期の革命は民衆の直接行動と政治改革が連動して進みました。これは支配構造そのものを変える「革命」であり、軍事的なクーデターとは性質が異なります。


王政廃止後も、共和政の制度づくりや戦争対応など、革命は試行錯誤を重ねながら続いていきます。


革命からクーデターへの転換

1790年代後半、総裁政府は汚職や経済不安、戦争疲れで支持を失っていきます。そんな中、軍事的成功で人気を集めていたナポレオンが帰国し、政治混乱を収拾する名目でブリュメール18日の行動を起こしました。軍を動かし議会を解散させたこの出来事は、まさに力で政権を奪うクーデターでした。


Coup of 18 Brumaire

ブリュメール18日のクーデター
1799年11月9日にナポレオン・ボナパルトがフランスの政治権力を掌握した事件。セントクラウド宮での緊張した瞬間を描く。
(出典:Creative Commons Public Domainより)


この時点で、民衆はほぼ政治の主導権を失い、軍と政治エリートの動きが決定的な力を持つようになります。


革命とクーデターの境界線

歴史的には、フランス革命は1789〜1799年までの一連の変革を指しますが、その終幕はクーデターによる政権交代でした。前半は社会構造を変える広範な改革、後半は権力掌握をめぐる政治闘争が前面に出るという、性質の違う二つの局面があったのです。


そのため、「フランス革命はクーデターだった」というよりは、「革命の果てにクーデターが起きた」と表現するほうが正確です。


つまりフランス革命は、民衆が始めた革命が、最後は軍事クーデターで終わるという珍しい流れを持っていました。


理想を掲げた出発点と、現実的な権力掌握で幕を閉じた終着点──その落差こそが、フランス革命を複雑でドラマチックな歴史にしているのです。