ラファイエットのフランス革命への関与とは?

ラファイエットのフランス革命への関与とは?

ギルベール・デュ・モティエ、ラファイエット侯爵はアメリカ独立戦争で培った自由主義的理念をフランスへ持ち帰り、革命初期に国民衛兵を率いた。秩序維持を重んじる姿勢で穏健派の象徴となり、その結果として急進派との対立に発展したのである。本ページでは、フランス革命の軍事的役割や政治路線の分岐を理解する上で重要なこのテーマについて、さらに詳しく掘り下げ解説していく。

アメリカ独立戦争で活躍したラファイエットが、フランス革命でも重要な役割を果たしたと聞きました。でも実際にはどんな行動をしていたのでしょうか?
王政を倒す側だったのか、それとも守る側だったのか、どっちつかずの立場に見えるところもあって、正直よくわかりません。
ラファイエットがどんな思想を持ち、どのようにフランス革命に関与したのか、できるだけ具体的に教えてください!



ラファイエット侯爵──彼はアメリカ独立戦争で「自由の戦士」として名を上げたあと、フランス革命にもその理想を持ち込もうとした人物です。
けれど、彼の立場は共和主義者とも王党派とも完全には重ならない、とても微妙なものでした。
そのため、革命の流れが急進化する中で彼の存在は徐々に孤立していきますが、それでも人権と自由の精神を象徴する存在として歴史に名を刻むことになります。


アメリカから持ち帰った「自由」の理想

ラファイエットは若くしてアメリカ独立戦争に参加し、ワシントン将軍と親交を深めながら自由・平等の理念に強く感化されました。
この経験が、彼のフランス革命へのアプローチに大きな影響を与えます。


1789年、フランスで革命が始まると、彼は三部会の貴族代表として登場し、やがて新しく生まれた国民衛兵(民兵組織)の総司令官に就任。
彼がもっとも象徴的な役割を果たしたのが、「人間と市民の権利の宣言(人権宣言)」の起草に関わったことです。
これはアメリカ独立宣言の理念をフランス流に翻訳したもので、「人は自由で平等な権利を持って生まれる」という近代民主主義の原点とも言える内容でした。


このようにラファイエットは、王政打倒を掲げるというよりも、自由な市民社会を築くことにこそ重きを置いていたのです。


王政と革命の間で揺れ動いたリベラル貴族

ラファイエットは急進的な共和制には懐疑的でした。
彼の理想は、国王の存在を残しつつ、憲法と議会で市民の自由を守る立憲君主制。これは、イギリスや当時のアメリカを参考にした穏健な体制でした。


そのため、1791年のヴァレンヌ逃亡事件で国王一家が捕らえられたときも、ラファイエットは暴動の拡大を防ぐために尽力します。
また、同年のシャン・ド・マルス事件では、共和制を求めて集まった民衆に対し、国民衛兵に命じて発砲させてしまうという悲劇を引き起こします。


この出来事は、彼が民衆の側から「裏切り者」と見なされるきっかけとなり、急速に信頼を失う結果となりました。
ラファイエット自身はあくまで秩序ある自由を守ろうとしたのですが、革命のテンションがそれを許さなかったのです。


Marquis De Lafayette by Ary Scheffer

人権宣言を起草したラファイエット侯爵の肖像画/アリ・シェフェール作、1822年作
(出典:Creative Commons Public Domainより)


革命から一時離れたあとも「自由の象徴」として残った

シャン・ド・マルス事件のあと、ラファイエットは政治の表舞台から退き、国外へ逃亡。
その後はオーストリア軍に捕らえられて数年間幽閉されるという、過酷な運命をたどります。


しかし、ナポレオン時代や王政復古の時代を経ても、ラファイエットはフランス国内で「自由の父」として根強い人気を保ち続けます。
特に1830年の七月革命では再び登場し、民衆と新しい王ルイ=フィリップとの仲介役として立憲君主制の再建を後押しします。


このようにラファイエットは、暴力や極端な変革ではなく、制度と合意に基づく自由の確立を目指し続けた政治家でした。
彼の思想は、現代のフランス共和国の基本的な価値観とも重なり、今なお人権と法の支配を重んじる精神として評価されています。


このようにラファイエットは、革命の両極端──王政と急進派の間をつなごうとした「橋渡し役」でした。


その立場はときに曖昧で、理解されないことも多かったですが、彼の目指した社会は自由・平等・秩序が両立する中道的な共和国だったのです。
現代にも通じる理想を体現した彼の歩みは、フランス革命を別の角度から照らし出してくれる存在と言えるでしょう。