
フランス革命戦争って、革命が始まってしばらくしてから起きた戦争ですが、その直接の原因は何だったのでしょうか? 国の中の混乱や財政危機はもちろんですが、外国との関係や事件が決定的な引き金になったとも聞きます。いったいどんな出来事や背景があって、戦争という形にまで発展したのか、その流れを詳しく教えてください!
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フランス革命戦争の直接の原因は、国内外の緊張が限界まで高まり、ついに武力衝突へ至ったことにあります。革命政府と周辺の王政国家との対立は、避けられない状況にまで進んでいました。
1791年8月、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と神聖ローマ皇帝レオポルト2世が、ドイツのピルニッツで会談しピルニッツ宣言を発表しました。これはフランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットを保護し、フランスの王政を回復させるために「必要なら軍事行動も辞さない」という強い姿勢を示すものでした。
この宣言は実際には即時の軍事介入を意味するものではありませんでしたが、フランス国内では「外国が革命を潰しに来る」という恐怖と怒りを一気に広げます。国民議会やジャコバン派は、革命を守るためには先制的に行動する必要があると考えるようになりました。
ピルニッツ宣言 1791年
1791年8月、ピルニッツ城でプロイセン王、神聖ローマ皇帝、ザクセン選帝侯が会議を行い、フランス革命の原因の一つとなるピルニッツ宣言を発表した場面を描いた絵画。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
同じ1791年、ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが国外への逃亡を試みる「ヴァレンヌ逃亡事件」が起こります。これは国王が外国勢力と結託し、革命を押しつぶそうとしているのではないかという疑念を国民に植え付けました。革命政府内部でも、立憲君主制を支持する穏健派と共和制を求める急進派の溝が深まっていきます。
この不信感は「国王はもはや革命の一員ではない」という意識を高め、戦争への強硬姿勢を後押ししました。
革命の混乱で財政はさらに悪化し、紙幣アッシニアの価値は下落。失業や食糧不足も広がり、国民の不満が高まっていました。加えて、フランス軍の士官層には貴族出身者が多く、その多くが国外へ亡命。軍の士気や組織力が揺らいでいたため、政府は「国内を引き締め、国外に革命を広める」ことで情勢を立て直そうとします。
こうして1792年4月、フランスはオーストリアに宣戦布告。防衛のための戦争は、やがてヨーロッパ全体を巻き込むフランス革命戦争へと拡大していきました。
つまり、フランス革命戦争の直接の原因は、国外からの王政復古圧力(ピルニッツ宣言)、国内の国王不信(ヴァレンヌ逃亡事件)、そして経済・軍事の危機が複雑に絡み合った結果でした。これらが同時期に噴き出したことで、外交的解決は不可能となり、武力衝突が避けられなくなったのです。
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