
ルイ16世とマリー・アントワネットの子どもたちは、フランス革命の激動の中でどうなったのでしょうか? 特に「ルイ17世」と呼ばれる王子や、その姉マリー・テレーズには、それぞれに悲劇的な運命があったと聞きます。王政が崩壊し、家族が処刑された後、彼らはどんな末路をたどったのか、詳しく知りたいです。
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ルイ16世とマリー・アントワネットには4人の子どもがいましたが、革命の荒波を生き延びたのは、長女マリー・テレーズただひとり。特に注目されるのが、「ルイ17世」ことルイ・シャルルの悲劇です。彼は王太子として生まれながらも、王として即位することなく獄中で幼くして命を落とすことになりました。兄妹の運命は、フランス革命の過酷さを物語る象徴でもあります。
ルイ・シャルルはルイ16世とマリー・アントワネットの次男で、兄の死後に王太子となりました。父が処刑された1793年、王党派の人々は彼を「ルイ17世」として即位した」とみなします。しかし、共和国政府は彼を王政の象徴として危険視し、ただの少年でありながらタンプル塔に幽閉しました。
その後、彼の世話を任されたのはサン=タムールという人物でしたが、虐待や劣悪な環境にさらされ、心身ともに追い詰められていきます。母マリー・アントワネットとも引き離され、孤独と監禁の中でわずか10歳の命を終えました(1795年没)。後に彼の遺体を調べた医師は、極度の栄養失調と病気に苦しんでいたと記録しています。
ルイ・シャルル(ルイ17世)
フランス革命中に幽閉され、若くして亡くなった悲劇の王子
(出典:Creative Commons Public Domainより)
マリー・テレーズは、ルイ16世夫妻の長女として生まれた唯一の生存者です。革命が激化し、家族が次々に処刑されていく中で、彼女だけはタンプル塔に幽閉されたものの、処刑は免れました。
1795年、オーストリアとの捕虜交換により国外追放され、母方の親族がいるウィーンに渡ります。その後は亡命先で王党派の支援を受けながら生活し、ブルボン王家の復古(1814年)後にはフランスに一時帰国。後にルイ18世のいとこであるアンギャン公ルイ・アントワーヌと結婚し、正式に「フランス王女」として復権しました。
ただし、政治の第一線には関わらず、王政復古と七月革命の狭間でひっそりと生涯を終えています。彼女の姿は「革命に翻弄された王族の象徴」として、後世にも語り継がれることになります。
マリー・テレーズ
ルイ16世とマリー・アントワネットの子女の中唯一生き残った。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
ルイ17世の死後、実は「生きていたのでは?」という噂が各地でささやかれ、多くの偽ルイ17世が登場しました。王党派の間では、ルイ17世の存在が王政復活の希望の象徴とされ、長い間、彼の遺体の行方や本当の死因は謎に包まれていたのです。
2000年に科学調査が行われ、彼のとされる心臓のDNA鑑定からマリー・アントワネットの子であることが確認され、ようやくその最期に決着がついたと言えます。
一方のマリー・テレーズも、晩年は「革命に家族を奪われた王女」として慎ましく暮らしながら、王政と共和制のはざまで揺れたフランスを見届けることになります。
このように、ルイ16世の子どもたちの運命は、革命によって王政の「未来」が断ち切られたことを象徴しています。
一人は獄中で命を落とし、もう一人は亡命と帰国を繰り返しながら生き延びた──その対照的な歩みは、王政が崩れ去る過程の「人間的な重み」を私たちに伝えてくれます。
そして、王族もまた、時代の犠牲者であったという視点を忘れてはいけません。
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