
フランス革命に対して、プロイセンはどんな反応をしたの?革命に関与した具体的な動きやその背景を教えて!
プロイセンは、フランス革命(1789–1799)に対して強い警戒心を抱き、反革命の立場を取りました。その背景には、革命の理念がヨーロッパ全体に広がり、自国の王政体制を揺るがす可能性への懸念がありました。プロイセンの行動を詳しく見てみましょう。
まず、プロイセンはオーストリアとともにピルニッツ宣言(1791年)を発表しました。この宣言では、フランス王政の復古を目指し、他のヨーロッパ諸国と連携する姿勢を示しました。ルイ16世とその王妃マリー・アントワネットを支援することで、革命の急進化を抑えようとしましたが、結果的にこの宣言はフランス国内の反発を招き、革命を加速させることになりました。
ピルニッツ宣言 1791年
1791年8月、ピルニッツ城でプロイセン王、神聖ローマ皇帝、ザクセン選帝侯が会議を行い、フランス革命の原因の一つとなるピルニッツ宣言を発表した場面を描いた絵画。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
次に、1792年、プロイセンはオーストリアと連携し、フランスに対して軍事行動を開始しました。フランス革命戦争では、プロイセン軍はオーストリア軍とともにフランス領に侵攻しましたが、同年9月のヴァルミーの戦いでフランス革命軍に敗北しました。この敗北は、革命軍の士気を高め、プロイセンとオーストリアの進撃を阻止する重要な出来事となりました。
その後もプロイセンは第一回対仏大同盟に参加し、フランス革命政府に対抗しましたが、フランス革命軍の強力な反撃や、国内の財政問題から次第に影響力を失いました。1795年にはバーゼルの和約を結び、フランスと和平を成立させ、革命戦争から事実上撤退しました。この決定により、プロイセンは以降の反革命活動で主導的な役割を果たすことはなくなります。
プロイセンはフランス革命に対し、反革命の先頭に立ち軍事的に干渉しましたが、その結果、革命の勢いを止めることはできませんでした。その行動は、フランス革命がヨーロッパ全体の政治構造に影響を与える一因となったといえるでしょう。