プロイセンはフランス革命にどう反応、関係した?

プロイセンはフランス革命にどう反応、関係した?

フランス革命はプロイセンに革命思想の拡散を恐れさせ、国内安定の維持を急務とさせた。オーストリアと同盟を組み、ヴァルミーの戦いなどで対仏軍を率いたのである。本ページでは、フランス革命期のプロイセンの対応と関与を理解する上で重要なこのテーマについて、さらに詳しく掘り下げ解説していく。

フランス革命が起こったとき、プロイセンはどのように反応したのでしょうか?プロイセンは絶対王政の代表格というイメージがあるので、革命に強く反発したのではと思うのですが、実際の動きや他国との連携、戦争など具体的な関与について詳しく知りたいです。特にピルニッツ宣言などの外交的な動きと、それが革命の流れにどう影響したのかも気になります。



プロイセンは、フランス革命を「体制の安定を脅かす深刻な危機」と見なし、早い段階からオーストリアと手を組んで革命への干渉を始めます。当初は「革命が広がらなければいい」程度のスタンスだったものの、革命が急進化していくとともに、その対応も軍事行動を含む強硬策へと移行していきました。


革命初期は警戒、ピルニッツ宣言で一線を越える

フランス革命が始まった1789年、プロイセンは直接的な介入には慎重でした。しかし、1791年にヴァレンヌ逃亡事件が発生し、フランス王室の命が脅かされる状況になると、王政を守るというヨーロッパの共通認識のもとに動き始めます。


その結果が、同年8月に神聖ローマ皇帝レオポルト2世(マリー・アントワネットの兄)との間で発表されたピルニッツ宣言。この宣言でプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は、「王政復古のためなら他国とも協力して軍事介入も辞さない」という姿勢を明確にします。


この動きは、フランス国内では「外からの脅し」として強く反発され、革命派をさらに過激化させる要因のひとつになっていきました。


Pillnitz Declaration 1791

ピルニッツ宣言 1791年
1791年8月、ピルニッツ城でプロイセン王、神聖ローマ皇帝、ザクセン選帝侯が会議を行い、フランス革命の原因の一つとなるピルニッツ宣言を発表した場面を描いた絵画。
(出典:Creative Commons Public Domainより)


フランスとの戦争へ突入、ヴァルミーで挫折

ピルニッツ宣言の翌年、フランスはオーストリアに宣戦布告。するとプロイセンもこれに応じ、オーストリアと連携して軍を動かし、フランスに侵攻します。プロイセンは「秩序の守護者」として、革命を武力で抑え込もうとしたわけです。


ところが、1792年9月のヴァルミーの戦いで、予想外の展開が起こります。訓練不足のはずだったフランス革命軍が、プロイセン・オーストリア連合軍を食い止め、事実上の勝利を収めてしまうんです。この戦いは、「革命は勝てるかもしれない」という希望をフランス国内に生み出し、共和政の宣言(翌日)へと一気に流れを加速させました。


プロイセン側にとっては大きな衝撃であり、「革命を力で押さえ込むのは容易ではない」と認識を改めることになります。


その後の動きとナポレオン時代への展開

ヴァルミー以後も、プロイセンは革命政権との戦いを続けますが、国内ではポーランド分割などの他の外交課題にも直面していたため、フランスとの戦争に専念しきれない状況でした。


そして、1795年にはフランスと講和を結び、一時的に革命への直接干渉を中断します。ただしこの後、ナポレオンの登場によって事態はさらに複雑になります。1806年にはイエナ=アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍がナポレオンに大敗を喫し、ベルリンは占領され、プロイセン王国は屈辱的な屈服を強いられることになります。


それでもプロイセンは、1813年以降ナポレオンに対する反撃に転じ、最終的にはウィーン会議でヨーロッパの再編に関わる立場へと復帰していくことになります。


プロイセンにとってフランス革命は、自国の王制と秩序を守るための戦いでもありました。


ピルニッツ宣言から始まり、ヴァルミーの敗北、ナポレオンによる占領、そして復活と、まさに山あり谷ありの関与の歴史。最初は「外の火事」と思っていた革命が、やがて自分たちの政治や軍事体制にまで波及することになったのです。


フランス革命は、プロイセンにとっても無関心ではいられない、時代の転換点でした。