オーストリアはフランス革命にどう反応、関係した?

オーストリアはフランス革命にどう反応、関係した?

フランス革命はマリー・アントワネットの実家であるオーストリア宮廷を刺激し、王妃保護の姿勢を強めさせた。やがて革命阻止のためプロイセンと共に対仏戦争を開始したのである。本ページでは、フランス革命期のオーストリアの対応と関係を理解する上で重要なこのテーマについて、さらに詳しく掘り下げ解説していく。

フランス革命とオーストリアの関係について知りたいです。マリー・アントワネットがオーストリア出身だったことは有名ですが、それ以外にもオーストリアが革命にどう関与したのかがよく分かりません。オーストリアはなぜフランスの内政に関心を持ち、どのように反応し、どんな行動をとったのか──背景と展開を詳しく教えてください。



フランス革命は、オーストリアにとってただの隣国の騒動ではなく、一族の名誉と体制の存続に関わる一大事でした。特に、フランス王妃がオーストリア皇室出身のマリー・アントワネットだったこともあり、革命の進行はオーストリアにとって家族の危機そのもの。ここから、オーストリアはフランス革命に深く関わっていくことになります。


「王家の一員」が狙われたことで動き出す

マリー・アントワネットは、オーストリア・ハプスブルク家の皇女であり、神聖ローマ皇帝レオポルト2世の妹。そんな彼女が民衆に罵られ、革命政府に追い詰められていく様子は、ウィーン宮廷にとって屈辱以外の何物でもありませんでした。


とくに1791年のヴァレンヌ逃亡事件で、ルイ16世とアントワネット一家が変装して国外脱出を試みるも、失敗して逮捕されるという出来事は、オーストリアに本格的な干渉の決意を固めさせる決定打になりました。


この事件を受けて、レオポルト2世はプロイセン王と連携し、後に有名なピルニッツ宣言を発表することになります。


Varennes Flight Incident

ヴァレンヌ逃亡事件
1791年、ルイ16世と王妃マリー・アントワネットを含むその家族が逮捕されたヴァレンヌ逃亡事件を描いた絵画。オーストリアはこの事件を受けて、フランス革命に対してより積極的な介入を検討し始めた。
(出典:Creative Commons Public Domainより)


ピルニッツ宣言で干渉の姿勢を明確に

1791年8月、レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が会談し、ルイ16世の権力回復を支援する意向を示したのがピルニッツ宣言です。これは直接の軍事行動を意味するものではなかったものの、フランス革命政府にとっては外圧による脅しとして受け取られ、対立は一気に深まりました。


その後、革命政府が次第に急進化し、ルイ16世の処刑まで行われたことで、オーストリアはついに行動に出ます。1792年、フランスに宣戦布告し、革命戦争が本格的にスタート。オーストリアはプロイセンとともに軍をフランスに派遣し、革命の拡大を阻止しようとします。


でも、ヴァルミーの戦いなどでフランスが善戦したことで、戦局は思ったよりも苦しい展開に。以後、オーストリアは長く続くナポレオン戦争の渦に巻き込まれていくことになります。


Pillnitz Declaration 1791

ピルニッツ宣言 1791年
1791年8月、ピルニッツ城でプロイセン王、神聖ローマ皇帝、ザクセン選帝侯が会議を行い、フランス革命の原因の一つとなるピルニッツ宣言を発表した場面を描いた絵画。
(出典:Creative Commons Public Domainより)


皇帝たちの入れ替わりとフランスとの対立の深化

1792年にレオポルト2世が死去すると、その息子フランツ2世が新たな神聖ローマ皇帝となります。彼の時代になると、フランス革命に対する姿勢はさらに硬化し、オーストリアは革命勢力を絶対に認めないという強硬な立場にシフトしていきました。


その結果、フランスとの戦争はますます激化し、ナポレオンの登場後はオーストリア自身が領土を奪われる側になります。アウステルリッツの戦いで敗れ、神聖ローマ帝国の解体(1806年)にまで追い込まれるなど、フランス革命の波はオーストリアにとって痛みを伴う試練の時代となっていきました。


ただ、それでもオーストリアは最後までフランスに対抗し、ナポレオン失脚後のウィーン会議では主導的な役割を果たすなど、ヨーロッパ秩序の再構築を目指す立場に立ち続けます。


オーストリアにとってフランス革命は、単なる隣国の動乱ではなく、皇室の血と名誉を脅かす重大な危機でした。


ヴァレンヌ逃亡事件をきっかけに本格的に関与を始め、革命戦争、ナポレオン戦争と、長く続く対立の中心に身を置くことになります。


最終的にはヨーロッパの再編を担う立場になるものの、その道のりは、フランス革命の衝撃とどう向き合うかという大きな問いを抱えたままの苦闘の連続だったのです。