
ルイ16世はフランス革命の渦中で処刑された唯一のフランス国王ですが、彼は革命を自ら起こしたわけではなく、むしろ時代の流れに飲まれていったようにも見えます。けれど、彼の治世が革命を加速させたとも言われますよね。いったい彼はどんな行動をとり、なぜ国民の怒りを買い、最終的に処刑されることになったのでしょうか? フランス革命と彼の関係を教えてください。
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ルイ16世のフランス革命への関与とは、時代に取り残された王が、変化を恐れて曖昧な姿勢を取り続けた末に、自らの地位をも命をも失うことになったという、とても象徴的な物語です。彼の行動や選択は、革命の勢いに大きな影響を与え、王政の終焉を決定づけるカギとなったんです。
ルイ16世が王位を継いだとき(1774年)、すでにフランスの財政はボロボロ。祖父ルイ15世から引き継いだ莫大な戦費と浪費のツケに加えて、貴族や聖職者が税を免除される不公平な社会構造が続いていました。
ルイ16世自身は改革に理解を示し、財務総監ネッケルなどを登用して財政立て直しを図ろうとしましたが、特権階級の強い抵抗に遭い、思うように進まず。ついに1789年、全国三部会を召集しますが、ここで第三身分(平民)が国民議会を宣言し、革命が大きく動き出します。
この時、王が毅然とした態度で妥協・共闘を選んでいれば、革命は穏やかな改革路線に進んだ可能性もありました。しかし彼は決定的な判断を避け、曖昧な態度を取り続けたことで、事態をかえって悪化させてしまったのです。
1791年、ルイ16世とマリー・アントワネットは変装してパリを脱出し、国外へ逃げようとします。これが有名なヴァレンヌ逃亡事件です。王族が革命から逃げ出した──この出来事は、国民にとって「王は信頼できない」という確信を与える決定打になりました。
しかもその後、彼はオーストリアやプロイセンと密かに連絡を取り、フランスへの軍事介入によって王政を取り戻そうと画策していたことも発覚。国内では「王が他国の力を借りて、自国の民衆を抑えようとしている」と受け止められ、完全に支持を失います。
こうした裏切りの連続が、フランス国民の怒りを一気に沸騰させ、「王政そのものが不要だ」という声が強まることに繋がりました。
1792年、フランスは正式に共和制を宣言。ルイ16世は「国王」ではなく、ただの市民「ルイ・カペー」として革命裁判にかけられます。罪状は、国家への裏切りと反革命行為。王政復古を目論み、他国と手を組んでいたことが決定的な証拠となり、有罪に。
そして1793年1月21日、コンコルド広場で公開処刑。ギロチンが落ちたその瞬間、1000年以上続いたフランス王政は終わりを迎えました。
ルイ16世の処刑
フランス革命中のルイ16世の処刑を描いた絵画。彼の政策と統治の失敗がフランス革命を引き起こし、最終的には公開処刑に繋がった。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
このようにルイ16世は、フランス革命のきっかけを生み、革命の正当性を象徴する存在として、その名を刻まれることになりました。
民衆の声に耳を傾けきれず、旧体制の枠の中でもがき続けたその姿は、変革の時代に適応できなかった権力者の典型とも言えます。
そして彼の処刑は、単なる権力者の終わりではなく、「市民による政治」の始まりを告げる出来事でもあったのです。
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