
フランス革命の中で起きた「ヴァンデーの反乱」について知りたいです。農民たちが共和国政府に対して武装蜂起したそうですが、どうして革命で国王や貴族の支配から解放されたはずの人々が、新しい政府に反発したのでしょうか。それはどこで起き、どんな背景や出来事が引き金になったのか──詳しく教えてください。
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ヴァンデーの反乱は、1793年春にフランス西部ヴァンデー地方で起きた大規模な農民・王党派の反乱です。革命政府の政策に不満を持つ農民たちが、旧体制支持の貴族や聖職者と手を組み、共和国軍と衝突しました。
この反乱は単なる地域的暴動ではなく、革命がすべての国民に歓迎されたわけではないことを示す象徴的な出来事となります。背景には宗教政策への反発、徴兵令、経済的負担といった複合的な要因がありました。
ヴァンデー地方は敬虔なカトリック信仰が根強い農村地帯で、住民は地元の聖職者や伝統的な暮らしへの愛着が強い地域でした。革命政府が1790年に制定した聖職者民事基本法は、聖職者に対し国家への忠誠宣誓を義務づけ、これを拒否した聖職者は追放・処罰されます。この政策は住民の反感を大きく買いました。
さらに1793年、共和国政府が対外戦争のため徴兵令を発布すると、農民たちは「自分たちとは無関係な戦争のために命を差し出す」ことへの怒りを募らせます。加えて、革命期の経済混乱による物価高や生活不安も不満を押し上げました。
反乱はヴァンデー県を中心に、西フランスの複数地域に広がりました。地元の貴族や旧体制支持者が指導者となり、農民兵を組織。戦闘はゲリラ的な襲撃から始まり、やがて共和国軍との本格的な戦争に発展します。反乱軍は「カトリックと国王のために(Pour Dieu et le Roi)」というスローガンを掲げ、宗教と王政の復活を訴えました。
初期には共和国軍を相手に勝利を重ねますが、やがて政府は大規模な鎮圧軍を投入し、圧倒的な兵力と徹底的な弾圧で反乱を抑え込みます。
鎮圧は極めて苛烈で、ヴァンデー戦争は虐殺と報復の連鎖となりました。共和国軍は村々を焼き払い、住民を大量に処刑。推定で数万人が命を落としたとされます。これは「革命の名の下に行われた大規模な国内弾圧」として、後世まで議論を呼び続けています。
この反乱は、フランス革命が掲げた自由や平等の理念が、地域や立場によっては受け入れられず、むしろ弾圧や暴力の口実となったことを示す事件でした。
ヴァンデー反乱における虐殺
ヴァンデーの反乱中に共和国軍によって行われた虐殺を描いた絵画。この反乱はフランス革命の一部として発生し、多くの無辜の民衆が命を落とした。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
ヴァンデーの反乱は、革命の理想と現実のギャップを突きつけた出来事でした。民衆の支持を得られなかった革命政府が、最終的に武力と恐怖で支配を強めた過程は、革命の影の一面として歴史に刻まれています。
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