
フランス革命では国王や王妃が処刑されたって聞いたことがあるんですが、実際に処刑されたのは誰だったんでしょうか? 名前は聞いたことがあるけど、どんな経緯で死刑になったのか、どういう状況だったのかはあまり知らないので、当時の背景や処刑までの流れも含めて教えてほしいです。
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フランス革命の中でも、ひときわ象徴的な出来事が国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの処刑です。
絶対王政を支えていた“王と王妃”が、民衆の手によって断頭台へ送られたというのは、当時のフランスだけでなくヨーロッパ中に激震を走らせました。
でも彼らは突然捕まって処刑されたわけではありません。革命の混乱と政治の転換の中で、徐々に追い詰められていったんです。
フランス革命が始まった1789年、まだ国王だったルイ16世は、最初はあくまで「立憲君主」としての役割を残そうとされていました。
しかし、国民議会の力が増していく中で、王政そのものに疑問を持つ声が高まり、民衆の怒りは次第に王室に向かっていきます。
決定的だったのが1791年のヴァレンヌ逃亡事件。国王一家が密かに国外逃亡を図ったものの、途中で発見されてパリに連れ戻されてしまいます。
この事件で「やっぱり国王は国民の味方じゃなかった」という疑念が一気に広がりました。
そして1792年、王政は完全に廃止され、フランスは共和制に突入。
その翌年の1793年1月21日、ルイ16世は国家への反逆罪で有罪判決を受け、パリのコンコルド広場でギロチンにかけられました。
王様が法の前に裁かれる――それはまさに、近代社会の幕開けを象徴する出来事でもありました。
そしてもう一人、革命の波に飲まれたのがマリー・アントワネット。
オーストリア皇帝の娘としてフランスに嫁ぎ、「ヴェルサイユのばら」でもおなじみの華やかなイメージを持たれがちですが、民衆からはずっと「浪費家で冷酷な王妃」というイメージで見られていました。
「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」という有名なセリフも、実際には彼女が言った証拠はありませんが、革命の怒りを象徴するフレーズとして定着してしまったほどです。
夫であるルイ16世が処刑された後も、彼女はコンシェルジュリー(監獄)に幽閉され、革命裁判所による審理を受けました。
判決はやはり死刑。そして1793年10月16日、彼女もまたギロチンで処刑されることになります。
最期の姿は「毅然としていた」とも言われ、処刑台に向かうその足取りには気高ささえあったとも記録されています。
マリー・アントワネットの処刑、1793年10月16日
恐怖政治下での処刑が行われたマリー・アントワネットの最後の瞬間を描いた絵画。フランス革命の激動の時期を反映した作品。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
ルイ16世とマリー・アントワネットの処刑は、単なる政変ではありませんでした。
それは「王は神の代理人ではなく、国民のひとりである」という新しい考え方が社会に定着していく象徴でもあったんです。
でも同時に、革命が理性や改革だけではなく、感情や報復にも動かされていたことを物語る場面でもあります。
王と王妃の最期は、「フランス革命がどれだけ社会を変えたのか」、そして「どれほどの代償を払って新しい時代が始まったのか」を教えてくれる、非常に重たい出来事だったんですね。
このようにフランス革命で処刑されたのは、国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットのふたりです。
絶対王政の象徴だった彼らがギロチンにかけられたことで、「王も例外ではない」という時代の意識が生まれました。
まさにこの瞬間が、近代国家への転換点となったのです。
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