
テュイルリー宮殿って、パリ中心部にあった王族の住まいだったと聞きますが、フランス革命の時代にはどういう役割を担っていたのでしょうか?特に1792年の「8月10日事件」で襲撃されたことが、革命の大きな転機になったと聞いたことがあります。その背景や経緯、そこから生まれた政治的な影響についても教えてください。
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テュイルリー宮殿は、ルーブル美術館のすぐ隣、現在のチュイルリー庭園にかつて建っていた王政最後の「住まい」とも言える場所です。でも、フランス革命の最中には、単なる王族の居城ではなく、「革命の圧力が直接ぶつかる場所」として非常に重要な役割を果たしました。特に1792年の8月10日事件は、この宮殿で起こったことで、フランス革命の流れを大きく変えるきっかけとなります。
テュイルリー宮殿は、もともと16世紀にカトリーヌ・ド・メディシスが建てた離宮でしたが、革命が始まった1789年以降、国王一家がヴェルサイユから移されてパリ市民の監視下に置かれる形で暮らすことになります。つまり、ここは自由な王の宮殿ではなく、半ば「政治的軟禁状態」の拠点だったんです。
ルイ16世とマリー・アントワネットは、見た目こそ王としての体裁を保っていたものの、議会や民衆の目が常に彼らの行動を追っているという緊迫した日々を過ごしていました。王政と民衆のあいだの距離が、実際の地理的距離としてもぐっと縮まったのが、まさにこのテュイルリー宮殿だったんです。
1792年8月10日、このテュイルリー宮殿が民衆と国民衛兵によって襲撃される事件が起こります。背景には、国王がオーストリアなどの外国勢力と結託してフランス国内の改革を妨げている、という疑念がありました。これが民衆の怒りに火をつけ、数千人の武装市民が宮殿を取り囲んだのです。
この日、王族は議会に逃れ命こそ助かりますが、守備にあたっていたスイス傭兵たちは多くが殺され、宮殿は事実上制圧されました。この「8月10日事件」によって、王政は完全に信頼を失い、国民議会は王政停止を宣言。これが共和制への決定打となりました。
テュイルリー宮殿襲撃/1793年
1793年、テュイルリー宮殿襲撃の様子を描いたジャック・ベルトーの絵画
(出典:Creative Commons Public Domainより)
襲撃の後、王政は正式に停止され、王族はタンプル塔に幽閉。宮殿は革命政府の管理下に置かれたものの、もはや政治の中心ではなくなっていきます。その後の恐怖政治期には、政府の主な活動拠点が別の場所に移され、テュイルリーは象徴的な存在としての役割を徐々に終えていくのです。
しかし、「革命が王政を打ち倒した場所」としての記憶はパリの人々に深く刻まれました。そしてその後のナポレオン政権期や王政復古時代にも、テュイルリーは何度も歴史の表舞台に戻りますが、1871年のパリ・コミューン時に火を放たれて焼失し、現在は跡地に庭園が残るのみとなっています。
今は静かな観光地となったチュイルリー庭園ですが、その地面の下には、かつて王と民衆の間で交わされた緊張のドラマが眠っているのです。
テュイルリー宮殿は、フランス革命の中で王政が崩れゆく過程を象徴する「政治と暴動の交差点」のような場所でした。王政の終焉は、この宮殿をめぐる攻防を通じて、誰の目にも明らかになったのです。
現在ではその姿を見ることはできませんが、この場所に立てば、かつての民衆の怒号や、王政が崩れるときの張りつめた空気が、遠く響いてくるような気がします。
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