
フランス革命の流れを勉強している中で、「国民議会」と「立法議会」という名前が出てきました。どちらも革命の初期に登場する議会のようですが、いまいち違いが分かりません。国民議会が終わって、なぜ立法議会が新たに作られたのか? その目的や役割の違い、政治的な意味の変化について詳しく知りたいです。
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「国民議会」と「立法議会」は、どちらもフランス革命初期に登場した革命期の重要な議会ですが、担った役割ははっきりと異なります。ざっくり言うと、国民議会は「土台」を作った議会、立法議会は「運営」を始めた議会なんですね。
つまり、一方は制度の設計者、もう一方はその制度を動かす操縦者、というような立ち位置になります。
国民議会 | 立法議会 | |
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設立時期 | 1789年 | 1791年 |
構成 | 主に第三身分の代表者が中心 | 新たに選出された代表者(国民議会のメンバーは再選禁止) |
代表性 | 身分制度に基づかない全国民を代表 | 全国民を代表する議員 |
目的 | 身分制度の廃止、立憲制度の確立 | 立憲君主制下での法律制定と執行 |
影響力 | フランス革命の初期段階をリード | 革命の進展に伴い、王権の更なる制限 |
国民議会(正式には憲法制定国民議会)は、1789年6月、第三身分の代表が三部会から離脱して作った議会です。ここで重要なのは、この議会の目的がはっきり「憲法の制定」だったこと。
テニスコートの誓いに始まり、同年の人権宣言の採択、封建的特権の廃止、そして1791年のフランス初の憲法を作り上げるまでが、国民議会の活動の中心でした。
この憲法により、王の権力を制限しつつ、国民による政治参加を可能にする「立憲君主制」が制度として整えられたんです。そして、憲法が完成したことで、国民議会は自らその役目を終え、次の段階へとバトンを渡しました。
1791年の憲法が完成すると、それをもとに政治を動かすための議会として立法議会(Assemblée législative)が新たに設けられます。期間は1791年10月から1792年9月までで、約1年だけ存在した短命の議会でした。
立法議会の最大の任務は、憲法に基づく新体制の運営でした。つまり、それまでの制度改革に続いて、今度は現実の政治をどう回すかを試されるフェーズに入ったんです。
ただし、議会内は穏健派(フイヤン派)、急進派(ジャコバン派)、中間派などで大きく割れており、内部対立が激化していきました。さらに、王族の亡命未遂や周辺国との戦争勃発が続き、立憲君主制そのものが揺らぐ事態となります。
立法議会の会議場
フランス革命時、立法議会の議場として使われた屋内馬術練習場の様子。この場所で多くの重要な議論が行われ、革命の方向性が決定された。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
国民議会と立法議会の違いを一言で表すなら、「制度を作ったか、制度を動かしたか」です。
国民議会は、王政の中に市民の声を取り込もうとする設計者として憲法を築き、改革の「土台」を整えました。対して立法議会は、その新体制を実行する「操縦者」でしたが、現実は非常に厳しく、王と議会の対立、民衆の不満、国外からの圧力などが重なって、わずか1年で限界を迎えます。
結局、立法議会は1792年の8月10日事件を経て王政を事実上停止し、同年9月には国民公会へと引き継がれることになるのです。
つまり、この2つの議会は革命の中でもそれぞれ異なるフェーズで活躍した、「設計フェーズ」と「実行フェーズ」の象徴だったと言えるでしょう。
このように、国民議会と立法議会は「革命の設計」と「新制度の実行」という異なる役割を担った議会でした。
国民議会は憲法を通じて旧体制の枠組みを壊し、新しい政治の土台を築くところまでが任務。一方の立法議会は、その新制度を実際に動かし、現実の政治を担おうとした存在でした。
しかし、急速に変化する社会と高まる民衆の要求、そして外からの脅威の中で、立憲君主制は揺らぎ、わずか1年で次のステージへと進むことになります。
つまり、この2つの議会の違いを知ることは、フランス革命が「一度の爆発」ではなく、連続した段階を経て進んでいった大きな運動だったことを理解するうえでとても大切なんです。
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