スペインはフランス革命にどう反応、関係した?

スペインはフランス革命にどう反応、関係した?

フランス革命は隣国スペインに反王政的思想の拡大を警戒させた。ブルボン家同盟の縁を背景に、反仏連合の一員として軍事行動に参加したのである。本ページでは、フランス革命期のスペインの反応と関与を理解する上で重要なこのテーマについて、さらに詳しく掘り下げ解説していく。

フランス革命について調べていて、スペインの関わりがあまり語られないことに気づきました。でも地理的にも文化的にもフランスと近い国なので、まったく無関係だったとは思えません。スペインはフランス革命にどのように反応し、どんな行動をとったのでしょうか?戦争や外交、国内の政治への影響も含めて知りたいです。



実はスペインも、フランス革命にしっかりと巻き込まれていた国のひとつです。とくに王政に対する脅威という点では、イギリスやオーストリアと同じく強い警戒心を持っており、やがて武力によってフランスとぶつかり合うことになります。その一方で、革命の余波はスペインの内政や王室にも波紋を広げていくことになるのです。


革命の拡大に警戒しつつも最初は静観

1789年にフランス革命が始まったとき、スペイン(当時はブルボン朝カルロス4世の治世)は比較的静観的な態度をとっていました。フランスとスペインはブルボン家を通じて王族同士の親戚関係にあり、直接的な敵意は当初そこまで強くはなかったんです。


しかし、革命が次第に急進化し、1793年にルイ16世が処刑されると、スペイン王室も一気に態度を硬化。「このままでは自国の王政も脅かされる」と判断し、イギリス、オーストリア、プロイセンなどとともに第一回対仏大同盟に加わり、フランスと戦争状態に入ります。


このとき始まったのが、ピレネー戦争(1793–1795)です。


ピレネー戦争とブールーの戦い

ピレネー山脈を挟んだこの戦争は、主に南フランスと北スペインの国境地帯で展開されました。スペイン軍は当初、フランス南部のラングドック地方などに侵攻するなど優位に立つ場面もありましたが、革命政府が徴兵制を強化し、市民軍を大量動員すると戦局は逆転します。


その象徴的な出来事が、1794年のブールーの戦いです。この戦いでフランス革命軍はスペイン軍に大勝利を収め、スペイン側はピレネー地域からの撤退を余儀なくされます。戦局が不利になる中、スペイン国内でも反戦の声や動揺が広がっていきました。


ブールーの戦い 1794

ブールーの戦い、1794年
ピレネー戦争中にフランス革命軍がスペイン軍を破った重要な戦闘。
(出典:Creative Commons Public Domainより)


和解と、その後の複雑な関係

ブールーの敗北を受け、スペインは戦争継続が困難だと判断。1795年にフランスとの間でバーゼルの和約を結び、革命政府との和平に踏み切ります。この講和によって、スペインはサントドミンゴ(現在のハイチ東部)をフランスに譲る一方で、ヨーロッパ本土での戦争からは一時的に手を引く形になりました。


しかしこの後、スペインは1801年からナポレオン体制のフランスと同盟を結び、イギリスと対立する立場へと転じます。ところがこの同盟関係も長くは続かず、1808年にナポレオンがスペインを侵略・占領すると、スペイン国内でゲリラ戦と独立戦争が始まり、状況は大きくひっくり返ります。


つまり、スペインにとってフランス革命は王政への脅威→軍事対立→同盟→侵略される側へと、まさに激しく揺れ動く時代の始まりとなったわけです。


スペインのフランス革命への対応は、一貫したものではなく、状況に応じて揺れ動く外交と軍事の選択の連続でした。


最初は慎重に様子を見つつも、ルイ16世の処刑をきっかけに一気に強硬化し、戦争に突入。けれど敗北と国民の疲弊から和平へ、そしてやがてナポレオンによる支配を受けるという、複雑で波乱に満ちた関係をたどることになります。


フランス革命は、スペインにとっても決して他人事ではなく、自国の進路を大きく揺さぶる転機だったのです。