
フランス革命戦争とナポレオン戦争って、どちらもフランスがヨーロッパ各国と戦った大規模な戦争ですが、いったい何が違うのでしょうか? 始まったきっかけや目的、戦い方や関わった人物も変わっていくと聞きます。同じフランスの戦争なのに、なぜ二つに分けて呼ばれるのか──歴史の流れの中での位置づけや性格の違いまで、しっかり教えてください!
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フランス革命戦争とナポレオン戦争は、時代的には連続していますが、性格と目的が大きく異なる二つの戦争です。前者は革命を守るための戦い、後者はナポレオンの覇権拡大を目的とした征服戦争と言えます。
観点 | フランス革命戦争(1792-1802) | ナポレオン戦争(1803-1815) |
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発端 | 革命政権と周辺君主国の対立、オーストリア・プロイセンの干渉への対抗 | アミアンの和約破綻後の対英対立再燃とフランス覇権拡大 |
目的・性格 | 革命の防衛と理念の拡大(解放戦争の側面) | フランス帝国の覇権確立と勢力圏再編(征服戦争の色彩が強い) |
フランス国内体制 | 立法議会→国民公会→公安委員会→総裁政府 | ナポレオンの統領政府(執政)→フランス帝政(第一帝政) |
対仏大同盟 | 第一次・第二次 | 第三次~第七次 |
主要戦役 | ヴァルミー、ジェマップ、フルーリュス、イタリア遠征、エジプト遠征 | アウステルリッツ、イエナ・アウエルシュタット、ワグラム、ボロジノ、ライプツィヒ(諸国民の戦い)、ワーテルロー |
主要条約 | カンポ・フォルミオ(1797)、リュネヴィル(1801)、アミアンの和約(1802) | ティルジット(1807)、シェーンブ倫(1809)、パリ条約(1814・1815)、ウィーン会議決議(1814-1815) |
軍事的特徴 | 国民皆兵・大規模動員の先駆、機動戦術の発展 | 軍団(コール)運用の成熟、広域遠征と補給の限界、大陸封鎖に伴う経済戦 |
イデオロギー的側面 | 市民的平等・主権の理念の波及、旧体制への挑戦 | 法典と行政の輸出は継続するが、帝国支配の正当化が前面化 |
経済・外交 | 戦時財政と占領地からの徴発、対英海上権益で劣勢 | 大陸封鎖令で対英貿易遮断を試みるも反発・密貿易拡大 |
欧州秩序への影響 | 中・小国家の再編の端緒、神聖ローマ帝国解体への流れを加速 | ウィーン体制の成立、保守的均衡の回復と民族運動の拡大 |
代表的指揮官 | デュモリエ、ジュールダン、モロー、ナポレオン(若き将軍) | ナポレオン、ダヴー、ネイ、スルト(連合側はウェリントン、ブリュッヘル、クツーゾフ等) |
帰結 | アミアンの和約で一時講和、ナポレオンの政治的台頭を促す | ナポレオン失脚・王政復古、フランスは領土縮小と賠償・占領を受ける |
総括 | 「革命の防衛と拡張」の段階 | 「帝国覇権の追求と崩壊」の段階 |
フランス革命戦争(1792〜1802年)は、フランス国内の王政廃止と共和制樹立を背景に始まりました。オーストリアやプロイセンなどの王政国家は、革命の広がりを恐れてフランスに圧力をかけます。これに対抗する形で戦争が勃発し、当初は「革命を守るための防衛戦」という性格が強かったのです。
しかし、戦況が好転するとフランスは逆に周辺国へ革命理念を広める攻勢に転じ、ベルギーやイタリア北部などを支配下に置きます。戦争はナポレオンの台頭とともに規模を拡大し、最終的に1802年のアミアンの和約で一時的な和平を迎えます。
ナポレオン戦争(1803〜1815年)は、和平崩壊後に始まり、ナポレオン・ボナパルトがヨーロッパ全域で覇権を握ろうとした一連の戦争です。ここでは革命の防衛というより、フランス帝国の拡大と支配が目的となります。イギリス、ロシア、オーストリア、プロイセンなどが次々と反仏同盟を結成し、欧州全土を舞台に激戦が繰り広げられました。
その象徴が1805年のアウステルリッツの戦いです。ナポレオンはロシア・オーストリア連合軍を破り、フランスの支配を頂点に押し上げました。
この時期の戦争は、経済封鎖(大陸封鎖令)や遠征戦(ロシア遠征)など、より戦略的・国際的な広がりを見せます。
アウステルリッツの戦い/フランソワ・ジェラール作
1807年にフランソワ・ジェラールによって描かれたアウステルリッツの戦いの絵画。ナポレオンがロシア・オーストリア連合軍を打ち破った。フランスの支配を欧州全域に広げる戦いであり、フランス革命戦争とは異なる、「征服戦争」としての性格を象徴している。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
フランス革命戦争は、封建制度を打破し、自由・平等の理念をヨーロッパに拡散させる役割を果たしました。一方、ナポレオン戦争は、それらの理念を背景にしつつも、実際にはフランス中心の新しい国際秩序を築こうとするものでした。
結果として、どちらの戦争もヨーロッパの旧体制に深刻な打撃を与え、ナポレオン法典のような近代的制度を広めましたが、ナポレオン戦争の終結(1815年)後にはウィーン会議によって「革命の広がりを抑える」反動的秩序(ウィーン体制)が復活します。つまり、前者は理念の発火点、後者はその理念を武力で拡張・再編しようとした段階と言えるのです。
まとめると、フランス革命戦争は「理念を守り、広める戦争」、ナポレオン戦争は「帝国を築くための戦争」という違いがあります。二つは連続しているものの、性格や目的が変化したことで、歴史の中では別々に扱われているのです。
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