フランス革命⇒ウィーン体制までの政治体制の変化とは?

フランス革命⇒ウィーン体制までの政治体制の変化とは?

フランス革命はヨーロッパの政治秩序を揺るがし、ウィーン体制による君主制復活の動きを招いた。自由主義が抑え込まれ、保守的体制が国際政治の主流となったのである。本ページでは、フランス革命とウィーン体制の関係を理解する上で重要なこのテーマについて、さらに詳しく掘り下げ解説していく。

フランス革命からウィーン体制の成立まで、ヨーロッパはめまぐるしく政治体制が変わったって聞きました。でも、王政から共和政、帝政、そしてまた王政?……って、正直なにがどうなってるのか頭がこんがらがってます。
それぞれの体制がどうつながっていて、なぜ最後は「ウィーン体制」にたどり着いたのか──できれば流れに沿って、わかりやすく教えてください!



フランス革命からウィーン体制までの約25年間は、まさにヨーロッパ全体を巻き込む「政治のジェットコースター」
フランス国内の体制が激しく変化する中で、他のヨーロッパ諸国もそれに振り回され、ついには国際秩序を立て直すための大規模な会議(ウィーン会議)が開かれることになりました。
ここでは、その流れを段階ごとに整理していきます!


① 革命で王政を廃止 ⇒ 「第一共和政」へ(1792年)

フランス革命が始まったのは1789年ですが、本格的な政治体制の転換は1792年、ルイ16世の処刑と王政の廃止によって訪れます。
このとき誕生したのが第一共和政。国王のいない国家として、国民が主権を持つ政治がスタートしました。


しかし理想はすぐには実現せず、国内ではジャコバン派による恐怖政治が展開され、国外では革命の波を止めようとする周辺諸国との対外戦争が始まります。
結果として、フランスは不安定な体制に陥り、人々は安定と秩序を求めるようになっていきました。


② クーデターとナポレオン登場 ⇒ 「第一帝政」(1804年)

混乱の中、頭角を現したのがナポレオン・ボナパルト。彼は軍事と政治の両面で実力を発揮し、1799年のクーデターで統領政府を樹立。
そして1804年、国民の支持を背景に自ら皇帝に即位し、フランスは第一帝政へと突入します。


ナポレオン体制下では革命の成果(法の下の平等・身分制の廃止)を制度として定着させつつも、強力な中央集権国家が築かれていきます。
同時に彼はヨーロッパ各地へと軍を進め、ナポレオン戦争が勃発。フランスはまさに一大帝国として欧州を席巻します。


③ ナポレオン失脚 ⇒ 王政復古と「ウィーン体制」(1814–1815年)

ナポレオンの拡大政策に対抗するため、イギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアなどが連合して反撃を開始。
1814年、ついにナポレオンは退位し、フランスにはルイ18世(ルイ16世の弟)が即位。ブルボン朝の王政復古が実現します。


ここで登場するのがウィーン会議。ヨーロッパの安定と秩序を取り戻すために、主要国の代表が集まり、王政を中心とした「旧体制(アンシャン・レジーム)」への復帰を決定しました。


これがウィーン体制と呼ばれる、新たな国際秩序の始まりです。


その目的は、革命やナポレオンのような急進的な変化を防ぐことであり、各国は国内でも反動的な政策(検閲・弾圧など)を強めていったのでした。


ウィーン会議

ジャン=バティスト・イザベイにより描かれたウィーン会議の様子
ナポレオン戦争後のヨーロッパを再編成するために開かれた国際会議。フランス革命以降の国際関係を形成した重要な出来事。
(出典:Creative Commons Public Domainより)


このように、フランス革命からウィーン体制に至るまでの政治体制の変化は、「王政 → 共和政 → 帝政 → 再び王政」という複雑なプロセスをたどりました。


でもこの変化の中で、「誰が国家の主権を持つのか」「どうすれば安定と自由を両立できるのか」という問いが何度も投げかけられたのです。


ウィーン体制は一見“元に戻った”ようにも見えますが、革命の理念は人々の心に確実に根付いていき、やがて19世紀の自由主義・ナショナリズム運動へとつながっていくことになります。