フランス革命期、亡命していたユグノーは帰国できたの?

フランス革命期、亡命していたユグノーは帰国できたの?

ルイ14世によるナントの勅令廃止で亡命したユグノーも、革命政府の宗教自由政策によって帰国が可能になった。国外生活で培った技能や資本が帰還後の経済発展につながったのである。本ページでは、フランス革命の亡命者政策や宗教的寛容の実例を理解する上で重要なこのテーマについて、さらに詳しく掘り下げ解説していく。

かつてルイ14世による弾圧を逃れてフランス国外に亡命したプロテスタント、いわゆるユグノーたちは、フランス革命によって宗教の自由が認められたあと、祖国に戻ることができたのでしょうか? 彼らはどこにいたのか、帰国したとしてどんな扱いを受けたのか──フランス社会との関係や影響も含めて、ユグノー亡命者のその後について教えてください!



ユグノー(フランスのカルヴァン派プロテスタント)は、17世紀後半のルイ14世によるナントの勅令廃止によって大規模な弾圧を受け、およそ20万人が国外へ逃れました。
彼らはスイス、オランダ、イングランド、ドイツ、さらには北アメリカや南アフリカなど、信教の自由が比較的保障された地域で移住先の社会に根を張っていきます


では、フランス革命後の「宗教の自由」の流れを受けて、亡命していた彼らは帰国したのでしょうか?
答えは一部はイエス、でも全体としてはノーです。


亡命のきっかけ──ヴァシーの虐殺からナントの勅令廃止まで

ユグノーへの迫害の歴史は、実は革命よりずっと前から始まっています。
その代表例が1562年の「ヴァシーの虐殺」。これはフランス宗教戦争のきっかけとなった事件で、カトリック勢力がプロテスタント礼拝を襲撃し、多くの死傷者を出しました。


このような流血の歴史の果てに、1598年のナントの勅令でようやく一定の信仰の自由が認められますが、ルイ14世は1685年にこれを廃止。
その結果、プロテスタント信者は改宗を強いられ、拒否すれば逮捕・拷問・追放という厳しい弾圧が行われ、多くが国外へ逃れざるを得ませんでした。


ヴァッシーの虐殺

『ヴァシーの虐殺』/16世紀フランス学派
1562年にフランス、ヴァシーで発生したユグノーに対する虐殺事件を描いた作品。この出来事はフランス宗教戦争の触発となり、長期にわたる宗教的対立の火種となった。
(出典:Creative Commons Public Domainより)


革命が開いた帰国の扉──でも開けた人は少数

1789年の人権宣言では、「宗教的信念の自由」が保障され、1791年にはプロテスタントにも完全な市民権が与えられました。
このことは、亡命ユグノーにとって名実ともに「帰国可能な状態」が整ったことを意味します。


しかし実際には、帰国したのはごく一部でした。


その理由は大きく2つ──


  1. すでに移住先で定住し、経済的にも文化的にも根付いていたため
  2. フランス国内には未だ残る偏見や不信感があったため


たとえばイングランドやオランダでは、ユグノーが商人や技術者、軍人として成功をおさめており、あえて不安定なフランスに戻るメリットは小さかったのです。
また、革命期のフランス自体が非常に不安定で、宗教政策も一貫していなかった(ジャコバン派の急進的な反教権主義など)ため、「自由が保障された」とはいえ、実際の暮らしが安定していたわけではありませんでした。


ユグノーの影響は、帰国よりも「外からの刺激」として残った

とはいえ、ユグノー亡命者の存在はフランスの宗教・経済・文化に間接的な影響を与え続けました。
たとえば、彼らが持ち出した技術や知識(時計製造、織物、銀行業など)は、各国で発展し、それが逆にフランスへの刺激にもなったのです。


また、亡命ユグノーの子孫がナポレオン時代やその後の政界・軍界・学界に登場する例もあります。
直接帰国はせずとも、「ディアスポラ的な存在」としてフランスとの関係を保ち続けた人々も多くいました。


そして、19世紀に入るとユグノーに対する歴史的評価も変化し、宗教的寛容の象徴として語られるようになります。



このように、フランス革命によってプロテスタントへの宗教的寛容は制度として実現され、ユグノーが「帰ってこれる国」にはなったものの、実際に戻ってきた人は限られていました。


多くのユグノーはすでに移住先で新たな人生を築いており、フランスに戻るよりも、外から祖国の変化を見守る立場を選んだのです。
それでも、フランス社会にとってユグノーの記憶は「宗教的排除の歴史」として深く刻まれ、革命が生んだ宗教の自由の意義を強く照らす存在であり続けました。