対仏大同盟の提唱者って誰?

対仏大同盟の提唱者って誰?

フランス革命期の対仏大同盟は、イギリスやオーストリア、プロイセン等が中心となって提唱した。ヨーロッパ諸国が連携し、革命の拡大を抑え込もうとしたのである。本ページでは、フランス革命期の対仏大同盟の提唱者と目的を理解する上で重要なこのテーマについて、さらに詳しく掘り下げ解説していく。

フランス革命が広がっていく中で、それを止めようとした周辺国が「対仏大同盟」を組んだって聞きました。でも、その大同盟っていったい誰が主導して呼びかけたものなんでしょうか? ただの王族の集まりではなく、戦略的に仕掛けた政治家がいたのでは? その中心人物や、どんな意図で大同盟を提唱したのかを詳しく知りたいです。



フランス革命がどんどん激しさを増していく中で、周辺の王政国家たちは「これはヤバい」と思い始めます。「民衆が王様を倒した? それが自国にも広まったらどうするんだ?」という不安が一気に広がっていったわけですね。


そんな中、「フランスをこのまま放っておいては世界の秩序が崩れる!」と本気で考えて、諸外国に呼びかけて包囲網を築こうとした人物がいました。
それが、イギリスの首相ウィリアム・ピット(小ピット)です。


対仏大同盟を提唱したのは“イギリスの若き宰相”ピット

ウィリアム・ピットは、まだ24歳という若さでイギリスの首相になった当時としては異例の天才政治家
もともと財政改革や議会改革を進めようとしていた穏健派の人物だったんですが、フランス革命の過激化――とくにルイ16世の処刑や、ジャコバン派の恐怖政治を見て、態度を一変させます。


彼は「フランス革命の理念がイギリスやヨーロッパに広まれば、王政そのものが危うくなる」と強く警戒し、1793年に第一次対仏大同盟の結成を各国に呼びかけるんです。


呼びかけに応じたのは、オーストリア、プロイセン、スペイン、オランダなどの王政国家。こうして、フランスを包囲し、革命の拡大を防ごうとする「ヨーロッパ全体の包囲網」が築かれていきました。


ウィリアム・ピットの肖像

ウィリアム・ピットの肖像
対仏大同盟を組織し、フランスの革命運動を潰そうとしたイギリスの首相。
(出典:Creative Commons Public Domainより)


革命への恐怖が外交政策を変えた

もともとピットは「他国の内政には干渉しない」という立場を取っていました。
でも、フランスで国王が処刑され、革命政権が他国にも干渉を始めると、「これはもう看過できない」と判断したわけです。


さらに、フランス革命政府は「革命軍」を組織し、「自由の名のもとにヨーロッパに進軍するぞ!」という姿勢を見せはじめていました。
実際、ベルギーやライン地方など周辺地域に軍を派遣していたため、周辺国は「次はうちかも…」と不安に。


ピットはこの危機感を共有しながら、イギリス海軍の力を背景に各国に声をかけ、「革命封じ込め」の連携を実現したのです。
こうして出来上がったのが「対仏大同盟」。まさにピットの政治的手腕が結実した外交戦略でした。


大同盟はピットの野望だったのか?

とはいえ、ピットが本当に望んでいたのは「ヨーロッパの安定」であって、必ずしも戦争そのものではなかったとも言われています。


彼は、革命の理念そのものではなく、その過激さや広がり方に問題を感じていたタイプ。つまり、完全に保守でもなければ、革命支持でもない、非常にバランスの取れた政治家だったんですね。


ただ、いったん戦争が始まると状況はどんどんエスカレートしていき、やがて革命政権からナポレオン政権へと移り変わる中で、対仏大同盟も形を変えながら継続されていきます。


ピット自身は1806年に病没しますが、彼の作った外交の枠組みはその後も続き、ナポレオンを包囲する力となっていくわけです。


このように、フランス革命に対抗する「対仏大同盟」を提唱したのは、イギリスの首相ウィリアム・ピット(小ピット)でした。


彼はフランスの革命が自国に飛び火するのを防ぐため、外交と軍事の両面から包囲網を築こうとした戦略家。
つまり、革命に立ち向かった“もうひとつの主役”とも言える存在なんですね。