
ロベスピエールという名前を聞くと、「恐怖政治」や「ギロチン」といった言葉が思い浮かびますが、そもそも彼はどんな立場でフランス革命に関わり、なぜあれほどまでに強硬な手段を取るようになったのでしょうか? 革命の理想を掲げながらも、多くの命を奪うことになったロベスピエールの行動と、その歴史的な意味を教えてください。
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マクシミリアン・ロベスピエールは、フランス革命の中でも最も象徴的で、最も議論を呼ぶ人物のひとりです。平等と市民の自由を求めて立ち上がったはずの革命が、なぜあれほど過酷な「恐怖政治」へと変貌していったのか――その中心にいたのが、他でもないロベスピエールでした。彼の革命への関与は、理想と現実の衝突を体現するかのような歴史でした。
ロベスピエールはもともと弁護士として活動していた市民出身の知識人でした。フランス革命が始まると、第三身分の代表として三部会に参加し、その演説力と誠実な人柄で徐々に頭角を現していきます。
彼が目指したのは、平等と市民の自由に基づく理想の共和国。ジャン=ジャック・ルソーの思想に強く影響を受けており、「一般意志」や「徳(vertu)」のある政治を説くようになります。王政の廃止や貴族の特権撤廃に強く賛成し、やがて急進派の中心人物としてジャコバン派を率いるようになっていきます。
1793年、ルイ16世の処刑を境に、革命はより激しさを増します。国内は王党派の反乱や経済混乱、戦争の脅威にさらされ、革命の理想を守るには強権的な手段が必要だという空気が広がっていきました。
ここでロベスピエールが打ち出したのが、「恐怖によって徳を守る」という思想です。反革命的な動きや思想を持つ者は、革命の敵=国家の敵とされ、次々に逮捕・処刑されていきます。
1793年から94年にかけての約1年間で、1万6000人以上が公式にギロチンで処刑され、これがいわゆる恐怖政治と呼ばれる時代です。皮肉なのは、この時期が革命の理念である「自由・平等・博愛」とは最もかけ離れた状況になってしまっていたことです。
マクシミリアン・ロベスピエール(1758–1794)
フランス革命期のジャコバン派リーダー、マクシミリアン・ロベスピエールを描いた肖像画。恐怖政治を推進し、多くの人々をギロチンに送ったことで知られている。
(出典: Creative Commons CC0 1.0より)
ロベスピエールは決して私利私欲で動いた人物ではなく、あくまで「高い理想」を実現するために、強権的な手段を選んでいった人物です。しかしその理想の純粋さゆえに、一度「敵」と見なした者には一切の妥協を許さなかった。それはやがて仲間にも向けられ、革命内部でさえ疑心暗鬼が広がっていきます。
1794年7月、ついに恐怖は自らに返ってきます。テルミドールのクーデタにより、ロベスピエールは仲間とともに逮捕され、ギロチンにかけられます。かつて自らが多くの人々に命じた処刑と同じ方法で、命を終えることになったのです。
このようにロベスピエールは、革命の理念を体現しようとしながら、結果的にその理念を歪めてしまった人物でした。
彼の政治は「恐怖による統治」として批判も多い一方で、国家における道徳や平等の実現を本気で追求したという点では、ただの独裁者とは一線を画します。
ロベスピエールの姿は、理想を現実にしようとすることの難しさ、そしてその危うさを私たちに問いかけ続けているのです。
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