
フランス革命のきっかけとしてよく挙げられる「全国三部会の招集」ですが、そもそもなぜこの時期に三部会が開かれることになったのでしょうか? すでに175年以上も開催されていなかったこの会議が、突然1789年に召集された背景には、どんな政治的・社会的な事情があったのか、詳しく知りたいです。
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1789年にヴェルサイユで招集された全国三部会(Les États généraux)は、フランス革命の出発点としてよく知られています。でも実はこの会議、最後に開かれたのは1614年で、なんと175年ものあいだ「封印されていた」存在だったんです。そんな三部会がなぜ、そしてどのような経緯で復活することになったのか──その理由は、王政の制度疲労と財政危機が限界を迎えていたからでした。
最大の直接的な理由は、国家財政の破綻です。18世紀後半のフランスは、ルイ14世・15世の時代の戦争と浪費、さらにはアメリカ独立戦争への援助などで膨大な借金を抱えていました。
ルイ16世はこの財政危機をどうにかするために、当初は財務総監ネッケルらを通じて富裕層への課税を試みましたが、貴族や聖職者(第一・第二身分)の猛反発にあい、改革はことごとく失敗に終わります。
そこで、王権だけで税制改革を実施するのが困難になったルイ16世は、「国民の代表を集めて議論し、正当性を持たせよう」と考え、1788年に全国三部会の招集を決定。これが、革命へと続く第一歩となったのです。
三部会は、聖職者(第一身分)、貴族(第二身分)、平民(第三身分)の代表で構成される旧来の議会制度ですが、投票方法は「各身分に1票」=第一・第二身分が結託すれば、第三身分の意見は常に押しつぶされるという仕組みでした。
しかし、この頃のフランスでは人口の9割以上が第三身分であり、重税や物価高騰で生活に苦しむ民衆の怒りが溜まりに溜まっていた状態。彼らは「どうせ形式的な会議だろう」とは思いつつも、初めて公に声を上げられる機会として、強い期待を抱いて三部会に参加しました。
そして案の定、身分制による不平等な議決方式に対して、第三身分の代表たちは独自に「国民議会」の設立を宣言。これが革命の実質的なスタートとなるわけです。
1789年5月5日、ヴェルサイユで開かれた三部会
1839年にルイ・シャルル・オーギュスト・クーダーによって描かれたこの絵画は、フランス革命へと繋がる政治的変革の瞬間を捉えている。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
皮肉なのは、三部会の招集はルイ16世にとって「財政改革のための苦肉の策」でしかなかったのに、結果的に絶対王政を崩壊させるきっかけになってしまったことです。
第三身分の怒りと主張は次第に身分制度の廃止、さらには国民主権と共和制へとつながり、会議は単なる「財政会議」から国全体の政治制度を問う革命の場へと変貌します。
つまり、三部会の招集は「封建制度が限界を迎えていた」ことを象徴する出来事であり、旧体制が自らの手で崩壊への扉を開けた歴史的瞬間だったのです。
このように、1789年の三部会は、王政が市民社会に「声を与えてしまった」ことで、かえって王政の正統性が崩れていく始まりでした。
最初は財政問題を解決するための会議にすぎなかったものが、最終的には政治・社会のあり方そのものを根本から問い直す革命へとつながっていったのです。
そしてこの流れは、フランスだけでなくヨーロッパ全体に波及していく近代の出発点となっていきました。
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