テニスコートの誓いはなぜ、どこで起きた?わかりやすく解説!

テニスコートの誓いはなぜ、どこで起きた?わかりやすく解説!

フランス革命の初期、国民議会の議員たちはヴェルサイユの屋内球戯場で憲法制定まで解散しないと誓った。これが旧体制に対する団結の象徴となったのである。本ページでは、フランス革命のテニスコートの誓いの背景と意義を理解する上で重要なこのテーマについて、さらに詳しく掘り下げ解説していく。

フランス革命のことを習っていて、「テニスコートの誓い」っていう出来事が出てきたんだけど、どうしてそんな名前なのかが気になっています。普通の会議じゃなくて、なんでわざわざテニスコートみたいな場所で集まったの? それって、ただの偶然だったのか、それとも何か意味があったの? この誓いが革命の流れの中でどんな役割を果たしたのかも含めて、ちゃんと教えてほしいです!



「テニスコートの誓い」は、1789年6月20日、ヴェルサイユ宮殿の近くにある屋内テニスコート(ジュ・ド・ポーム)で行われた、フランス革命の象徴的な出来事です。第三身分(平民)を中心とした国民議会の議員たちが、新しい憲法が制定されるまで解散しないと団結を誓い合いました。


きっかけは、王や貴族が主導する三部会での議決方式への不満。従来の身分別投票では、第三身分は常に第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)の連合に負けてしまいます。改革を求めて動き出した第三身分は、会議場を締め出されるという事態に直面し、急きょ近くの屋内テニスコートに集結しました。


そこで交わされた誓いは、単なる抗議ではなく、「国民こそが主権を持つ」という宣言でもあり、フランス革命の流れを決定づける大きな一歩となりました。


なぜ「誓い」を立てる必要があったのか

1789年春、財政破綻の危機を打開するためにルイ16世は三部会を招集しました。けれども、投票は各身分ごとに1票ずつという旧来の方式。人口の大多数を占める第三身分は、この制度では絶対に改革を実現できません。


そこで第三身分の代表たちは、6月17日に自らを「国民議会」と宣言し、国民全体を代表する立場で政治に臨むことを決意します。しかしその数日後、会議場は突然閉鎖され、事実上の締め出しを受けました。これに反発した議員たちは、ヴェルサイユの屋内テニスコートへと向かい、全員で署名を交わす形で「憲法制定まで絶対に解散しない」と誓ったのです。


この誓いは、国王の権威に正面から挑む姿勢を明確にし、絶対王政の基盤を揺るがしました。


どこで行われたのか

舞台となったのは、ヴェルサイユ宮殿からほど近いジュ・ド・ポーム(Jeu de Paume)と呼ばれる屋内テニスコート。当時のフランスで人気のあったスポーツ施設で、現在も史跡として残されています。


政治的な会議場ではない場所で誓いが行われたこと自体が、既存の制度からの決別を象徴していました。王の管理下にある公式の場を離れ、あえて民間の施設で集まることで、議員たちは「権力は宮廷の外にも存在する」という事実を可視化したのです。


この空間は、その後も「自由を求める人々の象徴」として歴史に刻まれることになります。


革命の流れに与えた影響

「テニスコートの誓い」は、単なる抗議行動では終わりませんでした。その団結の誓いが、王権に対抗する政治的正当性を国民議会に与えたからです。


この行動を受けて、第一身分や第二身分の一部議員も国民議会に合流し、旧体制の壁は崩れ始めます。さらに、同年7月14日のバスティーユ牢獄襲撃へと民衆の行動がつながり、フランス革命は一気に加速しました。


Tennis Court Oath by Jacques-Louis David

テニスコートの誓い/Auguste Couder 作
1789年6月20日にテニスコートで行われた誓いの場面を描いた絵画。この絵はフランス革命の初期、フランス国民が選挙権と平等を求めて立ち上がった歴史的瞬間を表している。
(出典:Creative Commons Public Domainより)


こうして「テニスコートの誓い」は、第三身分が名実ともにフランスの政治を動かし始めた瞬間として記憶されています。王や貴族に従うのではなく、国民が自らの意志で未来を決める──その象徴的な一日が、後の民主主義社会への道を切り開いたのです。