
ヴェルサイユ宮殿といえば、豪華絢爛なフランス王室の象徴というイメージがありますが、フランス革命の時代にはどのような舞台として機能していたのでしょうか?とくに「ヴェルサイユ行進」と呼ばれる出来事が革命の流れを大きく動かしたと聞きました。その背景や、宮殿の果たした歴史的な役割について詳しく知りたいです。
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ヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世が築き上げたフランス絶対王政の象徴であり、まさに「王の宇宙」とも呼ばれるほどの存在でした。でもフランス革命が始まると、その輝きは一転、民衆からの怒りと不信の対象になります。特に1789年の「ヴェルサイユ行進」は、この宮殿が王権から市民の手に政治の主導権が移るという歴史的な転機の舞台となったんです。
ルイ14世によって17世紀後半に建設されたヴェルサイユ宮殿は、それ以降フランス王政の中心地となりました。国王と貴族たちがこの地に集い、贅沢な儀式や晩餐を通じて王への忠誠を誓う場所となった一方で、政治と市民の生活はどんどん乖離していきます。
18世紀末、国家財政は破綻寸前、食糧不足は深刻化し、庶民の生活は困窮の一途。でもヴェルサイユでは、王妃マリー・アントワネットがプチ・トリアノンで優雅に遊ぶ姿が報じられ、「民の苦しみを知らぬ支配者」として王族への怒りが燃え上がっていきました。
1789年10月5日、パリで食料の高騰に怒った女性たちが、市庁舎に集まり「パンをよこせ!」と声を上げました。この女性たちを中心とする群衆は、やがて数千人規模の行進隊となってヴェルサイユへと向かいます。これがいわゆる「ヴェルサイユ行進」です。
女性たちは単に食料を求めただけでなく、国王に直接改革を訴える目的もありました。彼女たちは雨の中を十数キロ歩き、宮殿の門前に到着。翌朝には一部の市民が宮殿内に突入し、警護兵と衝突するという緊迫した状況も発生します。
この事態にルイ16世はついに折れ、王族はパリへ移動することを決定。こうして王政の「象徴的な本拠地」だったヴェルサイユ宮殿は政治的役割を終え、王権は民衆の監視下に置かれることになるんです。
『ヴェルサイユ行進』/1789年10月5-6日
フランス革命初期、パリの市民、特に女性たちがヴェルサイユ宮殿への行進を行い、生存権と改革を訴えた。フランス革命における重要な転換点である。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
王族がパリに移されたことで、ヴェルサイユ宮殿は政治の中心地としての機能を失います。それまでフランスの政治は宮廷で行われていましたが、この移動により政治はパリの市民の目の前で展開されるように変化したのです。
ヴェルサイユはその後、革命期を通じて空き殿となり、内部の調度品は売却。王政復古後には再び使われましたが、かつてのような絶対的な権威の中心地としての機能は戻ってきませんでした。
つまり、あの行進はただの食料要求デモではなく、王権の終焉と民衆の政治参加の始まりを象徴する行動だったと言えるでしょう。とくに女性たちが主体となって歴史を動かしたという点も、非常に画期的でした。
ヴェルサイユ宮殿は、もともと王権の栄華を象徴する空間でしたが、フランス革命の流れの中で「権力の終焉を告げる場所」となりました。パリへの王族の移動は、宮殿から民衆へと政治の中心が移る象徴的な出来事だったのです。
今では観光地としてその美しさが称えられるヴェルサイユですが、そこには民衆の怒りと変革の力が刻まれた歴史の重みも、確かに存在しています。
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