ルイ18世のフランス革命への関与とは?

ルイ18世のフランス革命への関与とは?

ルイ18世はルイ16世の弟で、革命期には亡命しヨーロッパ各地で王政復古を画策した。国外での外交工作を重ね、その結果ナポレオン失脚後の即位につながったのである。本ページでは、フランス革命の亡命貴族や王政復古の経緯を理解する上で重要なこのテーマについて、さらに詳しく掘り下げ解説していく。

ルイ18世と聞くと、ナポレオン失脚後に即位した「王政復古」の国王というイメージがありますが、実際にはフランス革命の時代にもすでに王族として存在していましたよね。彼は革命期に何をしていたのでしょうか? 革命にどう関与し、その後どのようにして王座にたどり着いたのか──ルイ18世の革命との関わりを教えてください。



ルイ18世は、革命の真っただ中で王座にいたわけではありませんが、革命によってすべてを失いながらも、のちに復活を果たした王として、その人生そのものがフランス近代史のダイナミズムを象徴しています。革命期には亡命し、陰で王政復活の希望をつなぎ続けた存在。彼の行動は、王政の終焉と復活という両方の歴史をまたいでいます。


革命では「亡命王子」として国外へ

ルイ18世(本名:ルイ=スタニスラス=グザヴィエ)はルイ16世の弟で、革命が始まった当初は王族としてフランスにいました。しかし1789年のバスティーユ襲撃以降、革命の気運が急激に高まり、王室が次第に民衆の敵とみなされていく中で、身の危険を感じて国外に逃亡します。


1791年に兄ルイ16世がヴァレンヌ逃亡事件で捕まり、その後1793年に処刑されると、亡命中のルイ18世は自らを「ルイ17世の後継者=正当なフランス王」と宣言。「ルイ18世」を名乗り、ヨーロッパ諸国に支援を求めて王政復活を呼びかける活動を始めます。


とはいえ、実際に軍事的な力を持っていたわけではなく、王党派の象徴的存在として各国の王政支持層と連携しながら、各地を転々とする亡命生活が続きました。


ナポレオンの台頭で復帰のチャンスは遠のく

王政復古のチャンスが訪れるかに見えたのは、革命後の混乱が極まった1790年代後半。しかし、その混乱を収拾したのは王族ではなく、ナポレオン・ボナパルトでした。彼のクーデタ(ブリュメール18日の政変/1799年)によって新たな統治体制が始まり、ルイ18世の立場は再び遠のきます。


ナポレオンが皇帝となった1804年以降も、ルイ18世は「私は正統な王である」という立場を崩さず、イギリスなどに支援を求めて活動を継続。プロパガンダ、密使、亡命政府の設置などを通じて、王政の正統性を国際社会に訴え続けました。


この時期のルイ18世は、表舞台にはいないながらも、「王政の記憶」を絶やさないための象徴的存在となっていたんです。


ウィーン体制の中で復活を果たした王

1814年、ついに転機が訪れます。ナポレオンが諸国連合軍に敗北し、エルバ島へ追放されると、フランス国内でも王政復古の機運が高まりました。ここでルイ18世は、亡命生活を終えてフランスに帰国し、「国王」として即位。ブルボン朝の王政は一時的に復活を果たします。


ただし、この時のルイ18世は、革命前の絶対王政に戻すのではなく、立憲君主制(憲章)を受け入れる形で政治に臨みました。革命の理念や市民の権利をある程度尊重しながら、王政を再建しようとする「現実的な君主」だったのです。


ルイ18世の肖像

ルイ18世(1755–1824)
ロベール・ルフェーヴル作。ウィーン会議後の王政復古期の国王ルイ18世を描いた肖像画
(出典:Creative Commons Public Domainより)


このようにルイ18世は、革命によってすべてを失いながら、王政の復活と新しい政治体制の構築に関わった稀有な王でした。


革命そのものに直接関与していたわけではありませんが、亡命と復活を繰り返す中で、「王政とは何か」を再定義する役割を果たしたとも言えます。

彼の人生は、フランスが旧体制から近代国家へと変わっていく過程の、橋渡し的な存在だったのです。