
フランス革命の始まりを象徴する「バスティーユ牢獄襲撃」って、教科書にも必ず載っている有名な出来事ですよね。でも、その舞台となったバスティーユって、そもそもどんな場所だったのでしょうか? ただの刑務所というには注目されすぎているし、なぜそこが民衆の怒りの標的になったのか、歴史的な意味や役割も含めて詳しく知りたいです!
|
|
バスティーユ牢獄は、ただの刑務所ではなく、「王の権力と恐怖の象徴」だった場所でした。
パリの東端に構えていたこの巨大な要塞は、中世から近世にかけてのフランス王政が民衆をコントロールするために使ってきた“威圧の象徴”であり、フランス革命がこの場所から始まったのは偶然ではありませんでした。
バスティーユは14世紀、イングランドとの百年戦争の最中にパリ防衛のための城塞として建てられました。高い石壁と8つの塔、堀に囲まれたその姿はまさに“鉄壁の砦”。
その後、17世紀に入ると王政にとって都合の悪い人物を幽閉する「国家の刑務所」として使われるようになります。つまり、正式な裁判もなく、国王の命令一つ(=逮捕状「勅令 lettre de cachet」)で、誰でも投獄される場所だったんです。
実際には貴族や反体制的な作家、知識人などが投獄されることが多く、重罪人というよりは「国王の気に入らなかった人」が入れられていた印象が強かったんですね。
だからこそ、民衆にとっては「自由を奪う不正義の象徴」だったわけです。
1789年7月14日の襲撃当時、バスティーユに収容されていた囚人はわずか7人。しかもその中には偽造犯や精神疾患のある人など、政治犯とは言えない人も含まれていました。
じゃあ、なぜそんな場所が襲撃されたのか? それは、民衆にとっての目的が「囚人を救うこと」ではなかったからです。
本当の狙いはバスティーユに保管されていた火薬や武器。当時、ルイ16世が首相ネッケルを解任し、パリに軍隊を集結させたことで、市民は「王が力で民衆を鎮圧しようとしている」と不安を感じていました。自衛のために武器を探していた人々が、ついにこの巨大な砦へと向かったわけです。
でも、それ以上に重要だったのが象徴としての破壊。「王の圧政の象徴を倒した」という達成感は、フランス中に革命の気運を一気に広げていきました。
バスティーユは、その建物自体が持つ意味によって、「自由の敵」と見なされていました。だからこそ、たとえ中が空に近くても、それを破壊するという行為そのものが、「市民による王権への挑戦」として劇的に受け止められたのです。
バスティーユ襲撃の後、この事件はフランス各地に衝撃を与え、農村でも貴族の館が焼き討ちされるなど全国的な反乱(=大恐怖)へと発展していきました。
さらにこの事件は、パリ市民の政治的存在感を高め、ルイ16世も民衆の力を無視できなくなり、事実上王政の終焉への第一歩となったのです。
バスティーユ襲撃/ジャン=ピエール・ウエル作
フランス革命の号砲となったバスティーユ牢獄襲撃事件を描いた絵画。中央には牢獄司令官を務めたド・ローネーが連行される姿が描かれている。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
このように、バスティーユ牢獄は、フランス革命の象徴的な「敵」であり、圧政に対する民衆の怒りが最初にぶつけられた場所でした。
たとえ中身が空でも、その砦が象徴するもの──つまり「国王による不正な支配」──を壊すことが、人々にとっては本当の“革命の始まり”だったのです。
自由を求める声が最初に響いたのは、まさにこの堅牢な石壁の前。そこから、フランスという国のかたちが大きく変わっていく歴史が始まりました。
|
|