フランス革命で徴兵制が導入されたのはなぜ?

フランス革命で徴兵制が導入されたのはなぜ?

フランス革命では外国との戦争と国内反乱への対応が急務となった。兵力確保と国民意識の高揚を目的に、国民皆兵の原則が導入されたのである。本ページでは、フランス革命の徴兵制導入の理由を理解する上で重要なこのテーマについて、さらに詳しく掘り下げ解説していく。

フランス革命を調べていて、「徴兵制」が導入されたことを知りました。王政を倒して自由を求める革命だったはずなのに、なぜ国民に兵役を強制するような仕組みが必要になったんでしょうか? しかも、自由や平等を掲げていた中で、そんな制度に対して国民の反発はなかったのかも気になります。革命の理想と現実、そのズレについて教えてください!



フランス革命の理想と聞くと、「自由・平等・博愛」が真っ先に思い浮かびますよね。ところが、そんな革命のさなかに徴兵制、つまり「国民に戦争への参加を義務づける制度」が導入されたというのは、ちょっと意外に感じるかもしれません。実はこの徴兵制の背景には、国の存亡をかけた戦争と、国民という新しい概念が深く関係していたんです。


フランス革命を守るための「国民軍」

1789年に革命が始まったとき、フランスの周辺国──特にオーストリアやプロイセンといった君主国家たちは、革命の波が自分たちに飛び火することを恐れていました。そこで1792年、フランスはオーストリアに宣戦布告し、革命戦争が勃発します。


最初は志願兵を中心に軍が構成されていたのですが、戦争が長引くにつれ、人手不足が深刻化。さらに、国内では王党派の反乱や農村部での暴動もあり、内と外の“二正面戦争”を抱えることになりました。


そんな中、1793年に国民公会が打ち出したのが「国民皆兵」をめざす徴兵制。これは革命政府が「国家を守るのは国民全員の責任だ」という思想に基づいて、満18歳から25歳の独身男性に兵役を義務づけるというものでした。つまり、王のためではなく、自由と共和国を守るために戦う“国民軍”の創設だったのです。


理想と現実のはざまで起きた反発

とはいえ、「平等だから全員兵役ね!」とはそう簡単にはいきません。特に地方の農民たちの間では、徴兵制に対する激しい反発が起こりました。なぜなら、彼らにとっては「革命」といっても実感のない中央の政治であり、家族や田畑を捨ててまで戦う理由が見えなかったからです。


この反発が最も顕著に現れたのが、ヴァンデ地方での王党派反乱(ヴァンデ反乱)です。徴兵制だけでなく、教会財産の没収や聖職者への弾圧に不満を持っていた住民たちが立ち上がり、共和国軍と激しい内戦状態になりました。


徴兵制を導入することで、フランス国内はよりイデオロギー的に二極化していき、自由や平等を掲げる革命が、ある意味暴力や抑圧と背中合わせの現実を抱えるようになっていったのです。


徴兵制が残した影響とは?

フランス革命期に始まった徴兵制は、結果的にヨーロッパの軍事制度を一変させる大きな転換点となりました。革命前の戦争は基本的に王様同士の争いであり、職業軍人が中心でした。しかし徴兵制の導入により、「国民全体が国家を守る」という考え方が主流となっていきます。


この制度を最も有効に活用したのが、ナポレオン・ボナパルトです。彼は徴兵制によって集められた巨大な国民軍を率いて、ヨーロッパの大半を制圧していきました。つまり、徴兵制がなければナポレオンの大遠征も実現しなかったかもしれません。


また、この国民軍の発想はのちに19世紀の国民国家形成第一次世界大戦のような総力戦の基盤ともなります。徴兵制は、単なる軍事制度ではなく、「国家とは何か」「国民とは誰か」という問いに対する一つの答えでもあったのです。


フランス革命中の新徴兵制

フランス新徴兵制への風刺画/ジョージ・クルックシャンク作
ナポレオンの妻でありオーストリア大公女であるマリー・ルイーズを描いており、彼女がフランスの新兵たち(彼らを幼児として表現している)を視察しているシーンが描かれている。ナポレオンの戦争によって多くの若者が徴兵されたことへの風刺した作品である。
(出典:Creative Commons Public Domainより)


こうして見ると、フランス革命の徴兵制は、自由のための戦いの中で生まれた“苦渋の選択”だったとも言えます。


確かに反発はありましたが、それでも「国を守るのは王ではなく国民だ」という新しい価値観が生まれ、国家と市民の関係を根本から変える大きな一歩にもなったのです。


理想を掲げる革命が現実と向き合う中で、徴兵制はまさにそのジレンマと変革を象徴する制度だったと言えるでしょう。