フランス革命の終息後、王政復古した理由とは?

フランス革命の終息後、王政復古した理由とは?

フランス革命後、内戦や戦争による混乱で安定を求める声が強まった。旧王家の復位が支持され、ブルボン朝が再び王位に就いたのである。本ページでは、フランス革命後の王政復古の背景を理解する上で重要なこのテーマについて、さらに詳しく掘り下げ解説していく。

フランス革命で王政を倒して共和政や帝政にまで移行したのに、最終的にまた「王政復古」になったのはなぜなんでしょう?
せっかく国民が主権を手にしたのに、また国王が戻ってきたってことは、革命が無意味だったってこと?
ルイ18世ってどんな王様だったのかも含めて、どうしてフランスが再び王政に戻ったのかを、歴史の流れに沿って詳しく教えてください!



たしかに、「革命で王政を倒したのに、結局また王様が戻ってきた」──というのは、矛盾しているように見えますよね。
でも、これは革命の理念が否定されたわけではなく、混乱の時代に区切りをつけて安定を取り戻すための選択だったとも言えるんです。
その象徴が、1814年に即位したルイ18世。彼の治世こそ、まさに「革命の後始末」としての王政復古でした。


ナポレオンの失脚が王政復古のきっかけに

フランス革命で王政が廃止された後、共和政・帝政と激動の時代が続きました。
特にナポレオン時代(第一帝政)では、ヨーロッパ中を巻き込んだ戦争が続き、人々の間に「もう争いはたくさん」という疲れが広がっていきます。


1814年、ナポレオンが連合軍に敗れて退位すると、フランスに空白の権力状態が生まれました。
そこでヨーロッパ列強は、革命前の旧王朝であるブルボン家のルイ18世をフランス国王として復位させ、フランスを「元の秩序に戻す」ことにしたんです。
これがいわゆる王政復古(Restoration)であり、ウィーン会議の方針とも一致していました。


ただの“昔に戻す”だけではなかった王政復古

王政復古と聞くと、「革命のすべてをなかったことにした」ように思えるかもしれませんが、実際には革命やナポレオンによって得られた成果の一部は維持されていたんです。


ルイ18世は即位にあたり、憲章(シャルテ)と呼ばれる憲法のようなものを発布し、立法権の一部を議会に与えるなど、ある程度の立憲主義を取り入れました。
また、ナポレオン時代に整備されたナポレオン法典や行政制度も、多くがそのまま継承されました。


つまり、ルイ18世の王政は絶対王政の復活ではなく、「革命の成果と王政の折衷案」とも言える新しい体制だったんです。


安定を求めた時代の中で、選ばれた“妥協”の政治体制

革命や戦争の時代を経て、フランス社会には「秩序」「平和」「安定」への強い欲求がありました。
その中で、旧王朝の復活は過激な変革を防ぎつつ、ある程度の自由と近代化を保てる方法として受け入れられたのです。


ルイ18世自身も温和で慎重な性格だったと言われており、反動的すぎず、革命勢力と保守勢力のバランスを取ることを意識して政治を行っていました。


もちろん、すべてがうまくいったわけではなく、復古王政はその後も不安定な状況に悩まされ続けますが、少なくともこの時点での王政復古は「革命否定」ではなく「革命の着地点」を探るためのステップだったと言えるでしょう。


ルイ18世の肖像

ルイ18世/ロベール・ルフェーヴル作
ウィーン会議後の王政復古期の国王ルイ18世を描いた肖像画。彼の治世はフランスにおける王政の安定をもたらした。
(出典:Creative Commons Public Domainより)


このように、王政復古は単なる「逆戻り」ではなく、革命で生まれた価値観を完全には否定せず、安定と秩序を両立させようとした政治的な“落としどころ”でした。


ルイ18世は、古い時代と新しい時代の橋渡しをした“調整型の王”として、フランスの再建を担った存在でもあるのです。


フランス革命の終息とは、「王を倒すこと」ではなく、国民がどのような形で政治に関わるかを模索し続ける、新しい時代の入口だったとも言えるでしょう。