フランス革命にみられた「狂気」とは何か?

フランス革命にみられた「狂気」とは何か?

フランス革命期の恐怖政治や過剰な粛清は、理想追求が暴走する一面を示していた。権力闘争や極端な群集心理が、この「狂気」を生み出したのである。理念と現実の乖離が悲劇を加速させた。本ページでは、フランス革命の急進化と暴走の心理的背景を理解する上で重要なこのテーマについて、さらに詳しく掘り下げ解説していく。

フランス革命は「自由・平等・博愛」を掲げた理想の運動だったはずなのに、その一方で残酷で凄惨な出来事も数多く起きたと聞きました。特に「九月虐殺」などは、民衆が暴走して大量の人を殺した“狂気の事件”だったとも言われます。いったいなぜ、自由を求めたはずの革命がここまで暴力的になってしまったのか? 革命の裏側にあった「狂気」について教えてください。



フランス革命にみられた「狂気」とは、理念が過激な行動に姿を変え、制御不能な暴力として噴き出した状態を指します。


もともと新しい社会のしくみを目指して始まった革命が、なぜそこまで血に染まったのか──その背景には、極限状態の不安、怒り、群衆心理がありました。


「九月虐殺」──集団の暴走が起きた瞬間

1792年9月、フランスは新たに共和国の成立を宣言しますが、国内外には不安が渦巻いていました。隣国の王政国家とは戦争状態、国内には王党派や反対勢力が潜んでいると信じられ、パリ市民のあいだでは「内部から裏切られるのではないか」という強い疑念が広がっていました。


その中で起きたのが、「九月虐殺」


民衆は、牢獄に収監されていた人物たち──聖職者、貴族、そして中には無関係な人まで──を「危険な存在」とみなして襲撃し、約1,200人を殺害しました。


これは手続きも裁判も経ないまま、怒りや不安を解消するかのように行われた集団行動であり、当時の社会の混乱と過熱ぶりを象徴しています。


Street Scene of Massacre during the French Revolution

フランス革命中の「九月虐殺」の街頭場面
フランス革命期パリ、民衆が反革命派が囚われている牢獄を襲撃し、無差別に大勢の囚人を虐殺した。大衆暴動の「狂気」と恐怖政治の時代を象徴する場面。
(出典:Creative Commons Public Domainより)



「粛清の時代」へ──行き過ぎた排除の論理

1793年、国王ルイ16世の処刑を境に、ロベスピエールとジャコバン派によるいわゆる「恐怖政治」が始まります。


この時期には、社会を新しく作り直すために反対意見をすべて排除するという極端な考えが広がりました。王党派や貴族だけでなく、同じ革命を進めていた穏健派の政治家や知識人までが次々とギロチンにかけられるようになります。


「社会を守るために必要」という名目のもとで、人々の口を封じる行為が正当化され、人間関係も互いに監視し合う緊張状態に変わっていきました。


ロベスピエール自身も、やがて「やりすぎだ」と見なされて処刑され、皮肉にも彼が築いた体制に飲み込まれる形で終焉を迎えます。


なぜ理念は暴走してしまったのか?

もともとは新しい社会のかたちを求めて始まった革命でしたが、戦争、飢饉、経済不安、情報の混乱といった重なる要因が、市民の不安を限界まで押し上げました。


そこへ「敵を排除しなければ自分たちが危ない」という発想が加わることで、一線を越える行動が群衆のあいだで連鎖的に起きていったのです。


こうして、最初は「希望」だったはずの運動が、気づけば監視と粛清の連続に変わり、誰も安心して生きられない社会へと姿を変えてしまいました。


このように、フランス革命の「狂気」とは、理想を追い求める中で生まれた恐怖と混乱が、やがて人々の判断を失わせ、暴力や排除へと向かわせた状態のことでした。


それは一部の指導者だけの問題ではなく、社会全体が不安定な空気に巻き込まれた結果とも言えます。


革命は一面では希望の象徴でしたが、もう一方では感情と群衆の動きが引き起こす危うさをも示していたのです。