フランス革命で恐怖政治が行われたのはなぜ?

フランス革命と政治・国家体制に関する一問一答

「フランス革命で恐怖政治が行われたのはなぜ?」という問いに対する回答になります。内外の危機や反革命派への恐怖、革命政府の混乱など、恐怖政治が生まれた背景を解説します!

フランス革命で恐怖政治が行われたのはなぜ?

フランス革命の中で「恐怖政治」という過激な時期があったけど、どうしてそんなことが起きたの?その背景や理由を教えて!

恐怖政治(1793–1794)は、フランス革命の中でも最も過激で血なまぐさい時期でした。この時期には、ジャコバン派が主導し、反革命派を排除するために多くの処刑が行われました。恐怖政治が行われた背景には、以下の3つの理由があります。

 

1. 内外の危機が革命政府を追い詰めた

フランス国内では、王党派や保守的な農民たちによる反乱(例:ヴァンデー反乱)が頻発していました。一方で、国外ではオーストリアやプロイセンなどの王政諸国がフランスを攻撃し、革命を潰そうとしました。このような内外の危機の中で、革命政府は急進的な手段を取らざるを得なくなり、反革命派への容赦ない処罰が進められたのです。

 

2. ジャコバン派の強硬な支配

革命政府内で権力を握ったジャコバン派は、「革命の敵を根絶しなければならない」という強い信念を持っていました。特にロベスピエール(1758–1794)の指導の下で、疑わしい人物や反革命派が次々と逮捕・処刑されました。ギロチンが象徴的な道具として用いられ、裁判なしで処刑される人々も多かったのです。

 

3. 革命理念のための過激な手段

「自由」「平等」「友愛」という理念を守るため、ジャコバン派は暴力的な手段も正当化しました。「恐怖なくして美徳なし」というロベスピエールの言葉に象徴されるように、革命の理想を守るためには、犠牲を払うことが必要だと考えられていたのです。しかし、この過激な手段は、最終的に社会に恐怖と混乱を広げました。

 

 

恐怖政治は、内外の危機に直面した革命政府が「革命を守る」という名目で行った強硬策だったのです。しかし、恐怖が行き過ぎたことで支持を失い、ロベスピエールの失脚と共にこの時期は終焉を迎えました。

 

Robespierre and Saint-Just on their way to the Guillotine

ギロチンへ向かうロベスピエールとサン=ジュスト/アルフレッド・ムイヤール作
1794年、失脚したロベスピエールとその主要な支持者がギロチン台へ向かう場面を描いた絵画
(出典:Creative Commons Public Domainより)