
フランス革命の中でも「恐怖政治」ってよく聞くけど、どうしてそんな極端な政治になったの? 理想のための革命だったはずなのに、なぜ多くの人がギロチンにかけられる事態にまでなったのか──背景や理由をわかりやすく知りたい!
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フランス革命期の「恐怖政治」(1793〜1794年)は、自由や平等を掲げたはずの革命が、極端な粛清と暴力で進められた時期です。これは単なる権力者の残虐さというより、国内外の危機が重なった結果でした。
1792年以降、革命フランスはオーストリアやプロイセンをはじめとする周辺諸国と戦争状態にありました。王政を倒したフランスを「危険な存在」と見たヨーロッパ諸国が、革命の波が自国に広がるのを恐れて攻撃を仕掛けたのです。国内でも反革命派の蜂起や王党派の抵抗が相次ぎ、特にヴァンデ地方では激しい内戦が続きました。国全体が外敵と内乱に同時に直面し、革命政府は「国家の存亡がかかっている」という極度の緊張状態に陥ります。
この混乱の中で、急進的なジャコバン派が権力を握り、ロベスピエールを中心とする公安委員会が実権を掌握しました。彼らは、革命を守るためには徹底的に敵を排除する必要があると考え、「自由は徳と恐怖の二本柱によって守られる」と宣言します。反革命的と見なされた者は社会的地位や身分を問わず裁判にかけられ、多くが短期間で処刑されました。
恐怖政治は、革命の理念を守るための「非常事態の政治」として正当化されました。当時の指導者たちは、もし妥協すれば旧体制や外国勢力に革命が潰されると信じていたのです。そのため、少しでも反対の意思を示したり、消極的な態度を取った人々まで「革命の敵」とされました。結果として恐怖と不信が社会全体に広がり、日常生活さえも萎縮していきます。
ギロチンへ向かうロベスピエールとサン=ジュスト/アルフレッド・ムイヤール作
1794年、失脚したロベスピエールとその主要な支持者がギロチン台へ向かう場面を描いた絵画
(出典:Creative Commons Public Domainより)
つまり、恐怖政治は単なる権力欲や残虐性からではなく、革命を守るためという名目で行われた非常手段でした。しかし、その徹底ぶりが人々を追い詰め、最終的にはロベスピエール自身も恐怖政治の犠牲者として処刑されます。理想を守ろうとした行為が、結果的に革命の信頼を損なう皮肉な結末を招いたのです。
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