フランス革命期にスイス傭兵が果たした役割とは?

フランス革命期にスイス傭兵が果たした役割とは?

スイス傭兵は王宮の護衛を担い、1792年のテュイルリー宮殿襲撃でも国王防衛のため奮戦した。忠誠心と職業軍人としての行動が評価される一方、その戦闘が王政崩壊の象徴となったのである。本ページでは、フランス革命の軍事史や外国人部隊の位置づけを理解する上で重要なこのテーマについて、さらに詳しく掘り下げ解説していく。

フランス革命を調べていると、「スイス傭兵」という名前がときどき出てきます。彼らって一体何者で、どうして革命期のフランスにいたんでしょうか?
特に「八月十日事件」でテュイルリー宮殿を守っていた話が印象的だったんですが、スイス人がなぜフランス王室を守る役目をしていたのか、そしてその後どうなったのかが知りたいです。
革命の流れの中で、彼らの存在はどんな意味を持っていたのでしょうか?



フランス革命期のスイス傭兵は、王政の象徴ともいえる存在でした。
外国籍でありながらフランス王室を守る精鋭部隊として長年雇われていた彼らは、革命が王政を揺るがすなかで最前線に立つことになります。
とくに1792年の「八月十日事件」では、民衆と激突し、大量の犠牲を出すことに──。この出来事は、王政崩壊の引き金にもなりました。


なぜスイス傭兵がフランス王を守っていたのか?

フランスには中世の頃からスイス人の傭兵を雇う伝統がありました。なぜかというと、スイス人は「忠誠心が高く戦闘に強い」という評価が高く、国内の派閥争いに巻き込まれない中立的な兵士として信頼されていたんです。


王宮の護衛として特に有名だったのがスイス衛兵隊(Garde suisse)で、王族の身辺警護や宮殿の守備を担っていました。
この部隊は、フランス軍の中でも特に訓練が行き届いており、国王ルイ16世も強く信頼していました。


ただ、こうした「外国人による王室護衛」は、革命を支持する民衆の目には旧体制を支える象徴として映り、次第に強い反発を招くようになります。


八月十日事件で王を守って命を落とす

1792年8月10日、パリ市民や義勇兵がテュイルリー宮殿に殺到し、国王を取り囲んだこの事件は、王政にとって決定的な破局でした。
宮殿を守っていたのが約900名のスイス傭兵。彼らは圧倒的な人数の民衆に対して最後まで防衛戦を展開し、多くがその場で命を落としました。


一方、ルイ16世一家は混乱の中で立法議会に避難。その際、王からの撤退命令が遅れたため、残されたスイス兵たちは孤立し、降伏後にも虐殺されるという悲劇に見舞われます。
この事件は、王権が国民から完全に見放された瞬間とも言え、王政廃止と共和制樹立への大きな一歩となりました。


Storming of the Tuileries Palace 1793

テュイルリー宮殿襲撃
1793年、八月十日事件のテュイルリー宮殿撃の様子を描いたジャック・ベルトーの絵画。この際スイス傭兵は殺到する民衆(義勇兵)から王家の防衛にあたり、大勢が犠牲になった。
(出典:Creative Commons Public Domainより)



革命後も語り継がれる忠誠と悲劇

八月十日事件のあと、スイス傭兵の存在は忠誠の象徴として語り継がれていきます。
特に有名なのが、現在スイス・ルツェルンにある「ライオン記念碑(ライオン・モニュメント)」です。これは、この事件で命を落としたスイス衛兵たちを追悼するために建てられたもので、泣きながら死んでいくライオンが刻まれた姿には、深い悲しみが込められています。


また、現代でもバチカン市国にはスイス衛兵が存在し、伝統的な役割を守っています。フランス革命期の出来事が、その後の国家と軍、そして忠誠のあり方について考える材料として、今なお語られている証でもあります。


このようにスイス傭兵たちは、フランス革命のただ中で王政に最後まで仕えた存在として歴史に名を刻みました。
その姿は、旧体制の象徴であると同時に、激動の時代に翻弄された「忠誠と誤解」の象徴でもあったのです。