
フランス革命を調べていたら、「九月虐殺事件」というすごく物騒な出来事が出てきました。1792年の9月にパリで囚人が大量に殺されたって書いてあったんだけど、どうしてそんなことが起きたのかがよく分かりません。戦争とか国内の混乱と関係があったの? それとも特定の人たちを狙った事件だったの? 背景や経緯を含めて、ちゃんと教えてほしいです!
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「九月虐殺事件」は、1792年9月2日から6日までの間、パリを中心に発生した囚人の大量虐殺です。事件の背景には、革命政府の不安定さ、国内の政治的分裂、そして国外との戦争が重なっていました。
この時期フランスは、オーストリア・プロイセン連合軍との戦争が不利に進み、パリが敵軍に占領されるのではという恐怖が広がっていました。同時に国内では王党派や反革命派の活動が活発化し、「もし敵軍が迫れば、監獄にいる反革命派の囚人たちが一斉に暴れ出して市民を襲うのではないか」という疑念が強まっていました。
その結果、パリの民衆と義勇兵たちは、自警の名目で監獄を襲撃。裁判らしい裁判も行わずに囚人を次々と処刑していきました。犠牲者には貴族や聖職者だけでなく、軽犯罪者や政治と関係のない人々も多く含まれており、この無差別性が事件の凄惨さを際立たせます。
1792年夏、革命政府は外からの軍事的脅威と内からの反革命の動きという二重の危機に直面していました。ヴァルミーの戦いの直前、敵軍はフランス領内に侵入し、パリ市民の不安は頂点に達します。
一方、国内では王政派やカトリック教会支持派が革命政府に反発し、各地で蜂起や暴動が発生。パリの監獄には、こうした「反革命の疑い」のある人々が多数収監されていました。「もし敵が迫れば、彼らが内部からパリを攻撃する」という噂は、恐怖と憎悪を一気に煽ります。
そして9月2日、市民義勇兵や一部の急進派革命家たちが監獄を襲い、即席の「裁判」を経て囚人を殺害する行動に出たのです。
虐殺はパリの複数の監獄で同時多発的に行われました。犠牲者の数は1,000人以上とされ、半数近くは聖職者、残りは貴族や一般市民、さらには罪の軽い者まで含まれていました。
この行動には、ジャコバン派の一部や急進的なパリ・コミューンが関与したとも言われますが、主導者が誰だったかは今も議論があります。事件は短期間で終息しますが、その衝撃は国内外に広がり、フランス革命の暴力性を象徴する出来事として記憶されることになります。
九月虐殺は、革命の理念「自由・平等・博愛」とはかけ離れた惨劇でした。この事件は革命政府への信頼を傷つけ、国外では「革命は無秩序と暴力を生む」というイメージを固定化しました。
一方で、虐殺を擁護する急進派は「これは市民が自らの安全を守るための正当防衛だった」と主張。こうした意見の対立は、その後の恐怖政治への道を加速させます。
1792年9月の虐殺事件
1792年9月にパリで発生した虐殺を描いた絵画。この期間中に無差別に囚人が殺害され、フランス革命の恐怖政治の一環として行われた。この作品は、選挙権を巡る政治的な緊張がどれほど激化していたかを示している。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
こうして九月虐殺は、戦争と恐怖、そして疑心暗鬼が重なったとき、革命がどれほど暴走し得るかを示す象徴的な事件になりました。その爪痕はフランス国内の政治文化にも深く刻まれ、後の歴史家たちにとっても避けて通れない論点となっています。
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