
フランス革命といえば、政治家や貴族が多く処刑されたイメージがありますが、実は科学者も命を落としたって本当ですか?
知の探究を続けていただけの科学者が、なぜ革命の嵐に巻き込まれて処刑されたのか。その背景や理由、そしてその出来事が科学の世界に与えた影響まで含めて、詳しく教えてください!
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フランス革命は、政治や社会だけでなく、学問の世界にも深い爪痕を残しました。中でも有名なのが、近代化学の父とも呼ばれるアントワーヌ・ラヴォアジエが、革命期に処刑されたという衝撃的な事実です。
彼はただの科学者ではなく、当時のフランスにおける知識人と行政のつながりを象徴する存在でもありました。それが皮肉にも、命を落とす原因にもなってしまうのです。
ラヴォアジエは、燃焼の仕組みを解明し、酸素の発見や質量保存の法則など、化学の世界に革命をもたらした人物です。ですが彼にはもう一つの顔がありました。それが、徴税請負人(フェルミエ・ジェネロー)という役職です。
これは、国に代わって税金を集める仕事で、王政時代の「お金の番人」として特権的な立場にあった職業。革命の時代には、このような富裕で影響力を持つ者たちが、民衆の怒りの的となりました。
ラヴォアジエは科学者としての功績がどれほど偉大であっても、旧体制の象徴のひとりとみなされてしまい、1794年、恐怖政治の最中に革命裁判所で死刑を宣告されてしまいます。
ラヴォアジエと彼の妻の肖像/ジャック=ルイ・ダヴィッド作、1788年
化学の実験を行うラヴォアジエと彼の妻を描いた絵画。科学への貢献と共に、恐怖政治下での処刑の運命を予感させる象徴的な作品。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
ラヴォアジエの裁判は、わずか1日で結審。科学への貢献や知的名声は、彼の命を守る盾にはなりませんでした。
裁判官の有名な言葉に、「共和国には学者など不要だ」というものがありますが、これは恐怖政治の時代に知性が軽んじられたことを象徴するエピソードとして語られています。
もちろん、革命がすべて知識を否定したわけではありません。ただしこの時期は、個人の思想や背景が少しでも“反革命的”と疑われると、それだけで処刑されるという異常な空気が支配していました。
つまりラヴォアジエは、科学者としてではなく、「王政の恩恵を受けた特権階級」として裁かれたのです。
ラヴォアジエの死は、ヨーロッパ中の知識人や科学者に大きな衝撃を与えました。
フランス国内でも、彼の死後すぐに恐怖政治は終焉を迎え、彼の名誉は回復されることになります。
ただしその犠牲は大きく、「政治が科学に介入することの危うさ」を示す例として、今なお語り継がれています。
彼の処刑によって一時的にフランスの科学研究は停滞し、学問の自由や知の独立性をどう守るかという議論も活発化することになりました。
皮肉なことに、彼が命を落とした1794年は、まさに彼が最も注力していたメートル法の導入が始まった年でもありました。
つまり彼の思想や功績は、亡くなった後もフランス革命の中でしっかりと息づいていたのです。
このように、フランス革命の混乱の中では、政治的立場や経歴によって科学者さえも命を落とすことがあったのです。
ラヴォアジエのような存在が処刑されたことは、「知の価値」が見失われかけた時代の象徴でもありました。
ですがその犠牲の上にこそ、後のフランスや世界における学問の自由と知の尊重という理念がより強く意識されるようになっていったのです。
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