
フランス革命の恐怖政治では、科学者も処刑されたって本当?どんな科学者が犠牲になったのか、その背景を教えて!
フランス革命(1789–1799)の恐怖政治(1793–1794)では、多くの人々がギロチンの犠牲となりましたが、その中には科学者も含まれていました。中でも有名なのが、近代化学の父とされるアントワーヌ・ラヴォアジエの処刑です。この出来事の背景には、政治的・社会的な要因が絡み合っています。
ラヴォアジエ(1743–1794)は、質量保存の法則や酸素の発見など、化学の発展に大きく貢献した科学者です。フランス革命以前には、税収制度を管理する「徴税請負人」の役職にも就いており、科学者であると同時に財務管理者でもありました。
革命期には、旧体制(アンシャン・レジーム)に関与した人物が「反革命分子」として標的にされることが多くありました。ラヴォアジエは徴税請負人として王室財政に関与していたため、革命政府にとって「旧体制の象徴」と見なされ、1794年に処刑されました。彼の処刑について、裁判官が「共和国には科学者は必要ない」と言ったとされる逸話は有名です。
フランス革命では、科学者がその知識や役職のために「エリート」と見なされ、革命理念の平等主義に反すると考えられる場合がありました。一部の科学者は旧体制とのつながりを理由に批判され、迫害を受けました。
恐怖政治の時期、政治的不安定や知識人への弾圧が科学の進展を一時的に妨げました。ただし、革命後には教育や科学研究の再編が進み、フランス科学アカデミー(Académie des Sciences)が再び活動を活発化させることとなりました。
フランス革命期の混乱は一時的に科学の発展を妨げたものの、革命後には科学が再び重要視され、近代教育や研究機関の基盤が整備されました。ラヴォアジエの死は科学者にとって悲劇的な出来事でしたが、彼の業績は後世に受け継がれ、化学の発展に大きく寄与しました。
フランス革命では、ラヴォアジエをはじめとする科学者が犠牲となる一方で、革命後の社会では科学が新たな基盤のもとで再構築されました。このように、革命は科学者たちにとって試練と新たな発展の両面をもたらしたのです。
ラヴォアジエと彼の妻の肖像/ジャック=ルイ・ダヴィッド作、1788年
化学の実験を行うラヴォアジエと彼の妻を描いた絵画。科学への貢献と共に、恐怖政治下での処刑の運命を予感させる象徴的な作品。
(出典:Creative Commons Public Domainより)