「絶対王政の崩壊」とは|フランス革命の変化解説

フランス革命と「絶対王政の崩壊」

フランス革命は、王権に権力を集中させた絶対王政を終焉へと導いた。代わって国民が主権を持つ政治体制が形作られていったのである。本ページでは、フランス革命の権力構造転換の過程を理解する上で重要なこのテーマについて、さらに詳しく掘り下げ解説していく。

フランス革命の大きな転換点として「絶対王政の崩壊」という言葉をよく聞きます。絶対王政って国王が全部の権力を握っている政治だと習いましたが、フランスではそれがどうやって成り立って、なぜ革命で崩れることになったのでしょうか? ルイ16世の処刑とも関係があると思うのですが、その流れや意味を含めて教えてほしいです。



絶対王政の崩壊とは、1789年のフランス革命によって国王が全権を握る政治体制が終わり、国民主権を掲げた新しい政治秩序へ移行したことを指します。

ブルボン朝の絶対王政は、王の権威を神の意志と結びつける「王権神授説」に支えられ、立法・行政・司法のすべてを国王が掌握していました。しかし財政破綻や社会不平等への不満、啓蒙思想の広まりによってその正当性は揺らぎ、革命の波に飲み込まれていきます。


絶対王政の仕組みと限界

フランスの絶対王政は17世紀のルイ14世の時代に最盛期を迎えました。国王は軍隊・税制・法律を直接支配し、議会の同意なしに政策を決定できます。

しかし18世紀末、度重なる戦争や宮廷の浪費で財政は危機的状況に陥り、加えて第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)に認められた特権が第三身分(平民)との格差を拡大させました。

啓蒙思想は「王は国民のために存在すべき」という考えを広め、この体制の矛盾を明るみに出しました。


革命と王権の失墜

1789年、財政危機を打開するために召集された三部会は、第三身分の反発から国民議会へと姿を変え、「国民こそ主権者である」と宣言します。

同年の人権宣言は自由・平等・国民主権を掲げ、王の権力は大きく制限されました。1791年の憲法制定により立憲君主制が成立し、国王は憲法に従う立場となりますが、ルイ16世は国外逃亡未遂(ヴァレンヌ事件)や反革命勢力との関係が発覚し、信頼を失います。

これが王政廃止と共和国樹立への道を決定づけました。


崩壊の象徴とその影響

1792年9月、王政が廃止され第一共和政が成立。翌1793年1月21日、ルイ16世は国家反逆罪で処刑され、絶対王政は完全に終焉しました。

国王処刑はフランス国内外に衝撃を与え、国外の王政国家との戦争を激化させます。一方で、国民が国家の最高権力を握るという理念は揺るぎないものとなり、その後の政治制度や社会改革の土台となりました。

この変化はフランスにとどまらず、19世紀のヨーロッパ全体に民主化と近代国家の波を広げる契機となります。


Execution of Louis XVI

ルイ16世の処刑
1793年、フランス革命中のパリ、ラ・コンコルド広場で行われたルイ16世のギロチンによる処刑を描いた絵画。絶対王政の終焉を告げる象徴的な出来事。
(出典:Creative Commons Public Domainより)


絶対王政の崩壊は、国王の時代から国民の時代へと舵を切った歴史的転換でした。

ルイ16世の処刑はその象徴であり、近代政治の新しい幕開けを告げる出来事だったのです。