
フランス革命の中で言葉の力が大きな役割を果たしたことはよく知られていますが、そんな中でもカミーユ・デムーランという人物がいたと聞きました。名前はあまり知られていないかもしれませんが、彼はどういった立場で革命に関わり、何を訴え、どんな運命をたどったのでしょうか?「言論」と「行動」が交差した彼の生涯について、ぜひ教えてください。
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カミーユ・デムーランは、フランス革命の中でもとりわけ言葉で火をつけた人物として知られています。彼は政治家というよりジャーナリスト・扇動家・演説家として革命の口火を切った一人で、バスティーユ襲撃直前の群衆を鼓舞する演説は、まさに歴史を動かした瞬間でした。
彼の人生は、言論で始まり、言論で終わるという、革命の激しさと儚さを象徴するようなものでした。
1789年7月12日、パリのカフェ・パレ・ロワイヤル前で群衆を前にして即席の演説を行ったのが、若き弁護士カミーユ・デムーランでした。ちょうどその日、人気のあった財務大臣ネッケルが国王によって更迭され、市民の間に不安と怒りが広がっていたタイミングでした。
デムーランは手にした拳銃を掲げながら、こう呼びかけたと伝えられています。 「武器を取れ!」 「バスティーユを襲え!」
この言葉が群衆を動かし、2日後の7月14日、バスティーユ襲撃へとつながっていくのです。まさに、彼の言葉が革命の導火線に火をつけた瞬間でした。
演説を行うカミーユ・デムーラン/フェリックス=ジョセフ・バリアス作
(出典:Creative Commons Public Domainより)
デムーランはその後もジャーナリストとして『フランス人の歴史的記録』や『クロコディル新聞』などの刊行を通じて革命を支援し、市民目線での痛烈な政権批判を展開しました。特権階級の腐敗、宮廷の無責任、暴力的な弾圧──すべてをわかりやすく、熱量を持って描き、民衆の支持を集めていきました。
さらに彼は、ダントンやロベスピエールとも親しく、ジャコバン派の一員として政治にも深く関与していくようになります。ただし彼は、過激な路線には疑問を抱いており、特に恐怖政治が始まったあとは寛容と和解を訴えるようになります。
この時期に発行した新聞『旧体制の友』では、粛清の停止や死刑の抑制を訴え、次第にロベスピエールとの間に溝が生まれていきました。
1794年、ついにロベスピエールは、反対意見を持つ者も「革命の敵」として粛清の対象とし始めます。その中には、かつての同志だったダントンやデムーランも含まれていました。
デムーランは、自らの新聞で「もはやギロチンは市民の敵を斬るものではなく、自由な思想を持つ者を斬る道具になってしまった」と書き残しました。
そして同年4月5日、ダントンとともに処刑。まだ34歳という若さでした。処刑台では「私は真実を愛した」と叫んだと言われています。
彼の死は、理想のために立ち上がった革命家が、理想ゆえに消されるという、なんとも皮肉な終焉でした。
カミーユ・デムーランは、剣を振るわず、言葉で革命を切り拓いた人物でした。
最初は民衆を動かす扇動家として、のちには過激化を止めようとする調停者として、常に時代の転換点に言葉で関わった存在でした。
その姿から見えてくるのは、革命とは行動だけでなく、思想と言葉の闘いでもあったということです。
彼の生涯は、「言葉が人を動かし、時に命を奪う」という歴史の残酷な真実を、今も私たちに語りかけています。
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