
フランス革命って、「自由」「平等」などの理想を掲げた正義の運動っていうイメージがあるけれど、一方で「ギロチンでどんどん人が処刑された」とか、「仲間同士で粛清しあった」とか、けっこう残酷な話も多い印象です。
歴史の教科書ではあまり詳しく書かれないけど、実際にはかなり血なまぐさい出来事だったのでは……?
なぜこんなに「残酷」と言われるようになったのか、その理由を具体的に教えてください!
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「自由・平等・博愛」を掲げたはずのフランス革命が、なぜ「残酷」という言葉と結びついて語られるのか──
その背景には、理想が極端な行動に変わっていった過程と、暴力によって社会を変えようとした現実が大きく関係しています。
ここでは、その「残酷さ」の3つの側面を見ていきましょう。
フランス革命の残酷さを象徴するのが、何と言ってもギロチン。
これは当時、より「人道的で平等な処刑方法」として導入されたものでしたが、実際には短期間で何千人もの命を奪った大量処刑マシンになっていきます。
パリ、カルーゼル広場(Place du Carrousel)で行われたギロチンによる最初の処刑の様子
(出典:Creative Commons Public Domainより)
とくに1793〜1794年の恐怖政治では、ロベスピエール率いる公安委員会が「革命の敵」を次々に断頭台に送り、パリでは毎日のようにギロチン処刑が行われました。
処刑されたのは国王ルイ16世やマリー・アントワネットだけでなく、革命の同志だったはずの人物たちや、市民、平民までも。
この時期には、「味方」と「敵」の境界線が極端に曖昧になってしまい、少しでも政府に批判的な態度を取っただけで死刑になるという恐ろしい状況が続いていました。
もうひとつの残酷さは、革命が進む中で起こった仲間同士の裏切りと粛清です。
もともと「自由のために」と団結していた革命家たちは、やがて路線の違いや権力闘争によって対立を深めていきます。
たとえば、初期の穏健派だったジロンド派は、後に急進派のジャコバン派によって追放・処刑され、
そのジャコバン派の指導者だったダントンやエベールも、最終的にはロベスピエールによってギロチンに。
つまり、「革命の敵」とされた人たちは本当の反対勢力だけではなく、昨日までの仲間だったことも多かったんです。
この状況は、「敵を倒す革命」がいつしか味方を処刑する革命へと変わっていったことを意味します。
誰もが「いつ自分が断頭台に送られるかわからない」恐怖の中で、人間不信と猜疑心が社会全体を覆っていきました。
革命の残酷さは、パリのギロチンだけではありません。地方でも大規模な弾圧や虐殺が行われていました。
とくに有名なのがヴァンデー地方での反乱に対する対応。
王政とカトリック信仰を支持する農民たちが共和国政府に対して蜂起した際、革命政府は容赦ない軍事鎮圧を行い、民間人を含む大量の死者が出ました。
一説には、ヴァンデー反乱に関する弾圧で10万人近い人々が命を落としたとも言われています。
また、他の都市(リヨン、ナントなど)でも「反革命的」とされた市民への公開処刑や銃殺、溺死刑などが次々と実施されました。
このように、理想を守るために現実を壊すという革命の矛盾が、民衆自身に大きな犠牲を強いていたんですね。
このように、フランス革命が「残酷」とされるのは、理想を実現するために、理性や人道さえ超えてしまった時期があったからです。
その中で起こったギロチンによる大量処刑、仲間同士の粛清、民衆への弾圧──
すべてが「自由」の名のもとに行われたという、逆説的な現実こそが、革命の残酷さを物語っています。
歴史は、理想と現実のはざまで何が起こるかを、私たちに教えてくれる存在なのかもしれません。
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