フランス革命期にギロチンにかけられた人は誰?

フランス革命期にギロチンにかけられた人は誰?

フランス革命期にはルイ16世やマリー・アントワネット、革命指導者のロベスピエールらが処刑された。政治的対立と恐怖政治の中で、多くの著名人が命を落としたのである。本ページでは、フランス革命期のギロチン処刑者を理解する上で重要なこのテーマについて、さらに詳しく掘り下げ解説していく。

フランス革命といえば「ギロチン」というイメージがつきものですよね。でも、実際に誰が処刑されたのかはあまりはっきり知られていません。王様や王妃だけじゃなく、政治家や革命家まで次々と処刑されたと聞きますが、本当なのでしょうか? どんな人たちが、どんな理由でギロチンにかけられたのか、代表的な人物や背景を含めて教えてください。



フランス革命期のギロチンは、単なる処刑道具以上の存在でした。もともとは「すべての人を平等に処刑する」という理念で導入されたものですが、やがて政治闘争や恐怖政治の象徴となり、さまざまな立場の人々がその刃にかけられることになります。


有名なのは王族や貴族ですが、実際には革命の推進者や思想家までもが次々と犠牲になり、「革命が自らを食らった時代」とも呼ばれるほどでした。


王と王妃──旧体制の象徴として

最も有名な処刑といえばルイ16世マリー・アントワネットです。
絶対王政の象徴だったルイ16世は、1793年1月に国家反逆罪で有罪判決を受け、パリのコンコルド広場でギロチンにかけられました。処刑の瞬間には群衆が詰めかけ、「王が死んだ、共和国万歳!」と叫ぶ声が響いたといいます。


その9か月後には王妃マリー・アントワネットも処刑。浪費癖や宮廷の贅沢な暮らしぶりが人々の怒りを買い、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」という(実際には彼女の言葉ではないとされますが)逸話も手伝って、革命の犠牲となりました。


Execution of Louis XVI

ルイ16世の処刑
1793年、フランス革命中のパリ、ラ・コンコルド広場で行われたルイ16世のギロチンによる処刑を描いた絵画。絶対王政の終焉を告げる象徴的な出来事。
(出典:Creative Commons Public Domainより)


政治家や革命家──仲間同士の粛清

革命が進むにつれ、ギロチンは旧体制の象徴を断つだけでなく、政治闘争の武器にもなっていきました。


たとえば、穏健派の指導者だったジロンド派の議員たちは、「革命の妨げになる」とされて次々と処刑されました。さらに恐怖政治の時代には、かつて革命を推し進めた急進派すらも粛清されていきます。


代表的なのがダントンエベールといった人物。どちらも革命を支えた立役者でしたが、方針の違いや権力争いのなかで「裏切り者」とされ、ギロチンに送られました。つまり、同じ革命の仲間が次々と「敵」とされる、悲劇的な展開だったのです。


恐怖政治の果てに──ロベスピエールも

そして最後には、恐怖政治を主導したロベスピエール自身もギロチンにかけられます。
彼は「革命を守るためには徹底的に反対派を処刑すべきだ」と主張し、多くの血を流しましたが、やがて恐怖と粛清の連鎖に人々が疲れ果て、「もうこれ以上は耐えられない」と反発が高まっていきます。


1794年、ついにロベスピエールは仲間たちによって逮捕され、その翌日に処刑されました。かつては「革命の守護者」と呼ばれた彼が、自ら作り出した制度のもとで命を落とすという、皮肉な結末でした。


このようにギロチンにかけられた人々は、王や貴族だけではなく、革命を推し進めた人たち自身も含まれていたのです。


フランス革命のギロチンは、「平等な処刑」という理念から始まりながらも、次第に政治闘争の象徴となり、仲間同士すら容赦なく断ち切る恐怖の道具へと変わっていきました。
つまり、ギロチンをめぐる歴史は、革命の理想と現実のギャップを映し出す鏡でもあったのです。