フランス革命以降「政教分離(ライシテ)」が進んだ理由とは?

フランス革命と宗教・信仰に関する一問一答

「フランス革命以降『政教分離(ライシテ)』が進んだ理由とは?」という問いに対する回答になります。革命期の宗教政策、啓蒙思想の影響、ライシテの法的基盤に着目し、フランスで政教分離がどのように発展したのかを理解していきましょう!

フランス革命以降「政教分離(ライシテ)」が進んだ理由とは?

フランス革命の後で「政教分離(ライシテ)」が進んだって聞いたけど、どんな理由があってそうなったの?

フランス革命以降に政教分離(ライシテ)が進んだ理由には、革命期における教会と国家の対立や、啓蒙思想の普及が大きな影響を与えました。フランスでは長い間、カトリック教会が国家権力と結びつき、特権階級の一部として多大な権威を持っていました。しかし、この構造が旧体制(アンシャン・レジーム)の象徴とみなされ、革命派から激しい批判を受けることになったのです。

 

革命初期、1789年の教会財産の国有化や1790年の聖職者市民憲法は、教会を国家の支配下に置く試みでしたが、これが聖職者と信者の分裂を招きました。また、ロベスピエールら急進派による理性崇拝運動では、カトリック教会の影響を排除しようとする極端な政策がとられ、教会と国家の関係はさらに悪化しました。

 

こうした背景に加え、啓蒙思想家たちの影響も無視できません。ヴォルテールやルソーらが提唱した「宗教から自由な理性」の概念は、政教分離の理論的基盤となりました。フランスでは、個人の信仰の自由を守る一方で、公的な場から宗教を排除し、政治における中立性を確保しようという考えが根付いたのです。

 

その後、19世紀にはナポレオンの宗教協約(コンコルダート)によって一時的に国家と教会の関係が修復されましたが、20世紀に入ると1905年の政教分離法によって、ライシテが法的に確立されました。この法律は、信仰の自由を保障すると同時に、国家がいかなる宗教にも関与しないことを明確にしたものです。

 

このように、フランス革命で始まった教会と国家の分離の動きは、自由と平等を追求するフランスの価値観の中で発展し、政教分離(ライシテ)として確立されたのです。この理念は今なおフランス社会の基盤となっています。

 

Laïcité Plaque in Lyon

リヨンのライシテプラーク
フランス、リヨンの公共スペースに設置され、政教分離の原則を象徴するプラーク。公共の場における宗教の影響から離れることを表明するもの。
(出典:Creative Commons CC0 1.0より)