
フランス革命のことを勉強していて気になったのが、周辺のヨーロッパ諸国がなぜあんなに干渉してきたのかという点です。フランス国内の話なのに、なぜわざわざ他国が軍を動かしたり、干渉したりしたのでしょうか?単に王族同士が親戚だから心配したというだけではなさそうな気もします。彼らが革命を恐れた理由や、その反応がどう展開していったのかを詳しく知りたいです。
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フランス革命が起きたとき、それを一番恐れたのは、実はフランス国外の君主たちだったんです。というのも、革命はただの国内騒動ではなく、ヨーロッパ中の「王様たちの立場そのものを揺るがす出来事」だったから。
18世紀のヨーロッパのほとんどの国は王政で成り立っていて、国王は「神に選ばれた支配者」と考えられていました。そんな中でフランスから飛び出した「国王はいらない!」「政治は国民が決めるべきだ!」という革命のメッセージは、周辺国の君主たちにとってはまさに恐怖の種でした。
「もしこの思想が自国にも広まったら…?」「民衆が蜂起したら、自分の王座も危ういのでは?」――そんな不安が一気に高まります。特にプロイセンやオーストリアの王侯たちは、フランス革命を単なる隣国の事件ではなく自分たちの体制を揺るがしかねない脅威として受け止め、神経をとがらせていきました。
実際、フランス革命が始まると、各地で民衆運動が活発になり、王政に対する不満が表面化していきます。パンの値段や税の重さへの抗議は、やがて「支配者そのものへの疑問」へとつながり、ヨーロッパ全土で不安の連鎖が広がりました。王制国家の支配者たちは、革命思想が火のように広がるのを恐れ、フランスを孤立させる必要があると考えるようになったのです。
パンの価格高騰に抗議する女性たちのヴェルサイユ行進(1789年)
フランス革命勃発後のパンの価格高騰と供給不足に怒ったパリの女性たちが、王権に対応を迫るためヴェルサイユへ向かった場面を描いた絵画
出典: Photo by Jacques-Philippe Caresme / Wikimedia Commons Public domainより
こうした状況を受け、まだルイ16世が処刑される前の段階で、オーストリアやプロイセンなどの国々は「革命を抑え込むための共同戦線」を築こうと動き始めます。王政国家同士が手を組んで「革命の火消し」を試みたのは、フランス国内の混乱を収めるためだけではなく、自国の民衆に「王を倒すなんて不可能だ」と思わせるためでもありました。
つまり、フランス革命はフランスだけの出来事ではなく、ヨーロッパ全体の王政国家を揺さぶる試練と挑戦だったのです。
1791年8月に発表されたピルニッツ宣言は、フランス革命に不安を抱くヨーロッパの王族たちの結束を象徴する出来事でした。神聖ローマ皇帝レオポルト2世(マリー・アントワネットの兄)と、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が、ドレスデン近郊のピルニッツ城で会談し、「ルイ16世の権威を回復させるためなら軍事介入も辞さない」と表明したのです。
もっとも、文言をよく読むと「ヨーロッパ諸国が一致して行動するなら」という条件つきであり、実際にはすぐに軍事行動に移る意志は薄かったと考えられています。つまり、形式的には「フランス内政に直接干渉するつもりはないけれど、もし他の国々が協力するなら動く」という牽制的な声明に過ぎなかったわけです。
しかし、フランスの革命派からすると、この宣言は「外から王政を押しつける企て」に映りました。すでに国内では国王への信頼が失墜していた状況だったため、この宣言はかえって「国王は外国の力に頼って国民を裏切ろうとしている」と受け止められ、怒りを一層高める結果となったのです。
ピルニッツ宣言はその後の国際情勢を大きく動かしました。フランス革命政府は国外勢力との対決姿勢を強め、ついに1792年にはオーストリアとの戦争に踏み切ります。つまりこの宣言は、王族同士の「連帯の表明」であると同時に、フランス革命をヨーロッパ全体の対立へと押し広げる引き金にもなったのです。
ピルニッツ宣言 1791年
1791年8月、ピルニッツ城でプロイセン王、神聖ローマ皇帝、ザクセン選帝侯が会議を行い、フランス革命の原因の一つとなるピルニッツ宣言を発表した場面を描いた絵画。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
1792年、ピルニッツ宣言からわずか1年後、フランスはついにオーストリアに宣戦しました。これがいわゆる革命戦争(対仏大同盟戦争)の幕開けです。王政を守ろうとするヨーロッパの諸王国と、新しい体制を押し広げようとする革命フランスが正面から衝突し、単なる外交問題ではなく体制同士の激突へと発展していきました。
革命政府は戦争を単なる防衛戦と捉えるのではなく、「自由と平等の思想を全ヨーロッパに広める」という理念の輸出を掲げました。これにより、戦争は国境や領土をめぐる従来型の争いではなく、君主制と共和制のどちらが正しいのかをかけた「イデオロギー戦争」へと変質していきます。
当然ながら、王制国家にとってこの姿勢は看過できませんでした。オーストリアとプロイセンに続き、イギリスやスペイン、オランダなども次々と参戦し、フランスは四面楚歌の戦況に追い込まれます。ヨーロッパの支配層にとってフランス革命は「自分たちの体制を脅かす感染症」のように見え、これを封じ込めるために同盟が強化されていったのです。
こうして始まった戦争は、やがて若き将軍ナポレオン・ボナパルトの登場を促します。彼は革命軍を率いて次々と勝利を重ね、フランスの軍事的地位を大きく押し上げました。そしてこの流れは、最終的にヨーロッパ全土を巻き込む激動のナポレオン時代へとつながっていくのです。
つまり、この戦争は単なる国と国との争いではなく、「革命を止めたい世界」と「革命を広げたいフランス」という二つのビジョンがぶつかり合った、歴史の大転換点だったといえるでしょう。
リヴォリの戦いにおけるナポレオン
リヴォリの戦い(1797年)はナポレオンがイタリア遠征でオーストリア軍を破り、その軍事的才能をヨーロッパに示した決定的勝利だった
(出典:Creative Commons Public Domainより)
周辺国がフランス革命に干渉したのは、「王政を守るため」だけではなく、「自国の体制を守るため」でもあったんですね。
ピルニッツ宣言は、まさにその不安と警戒の象徴でした。でも結果的に、それが火に油を注ぐ形となり、革命は内から外へと広がっていくことになります。
フランス革命はフランスだけの出来事ではなく、ヨーロッパ全体の秩序を揺さぶった「連鎖の始まり」だったとも言えるのです。
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