
日本の江戸時代って、基本的に鎖国していたから、海外の情報はあまり入ってこなかったイメージがあります。でもフランス革命のような大きな事件が起きたことは、やっぱり日本にもいずれは伝わったんですよね?具体的に「いつ・どうやって」フランス革命の情報が日本に届いたのか、当時の江戸幕府がそれをどう受け止めたのかなど、詳しく知りたいです!
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実は日本がフランス革命の情報をキャッチしたのは、かなり早い段階だったんです。江戸幕府は鎖国政策をとっていたとはいえ、長崎・出島を通じてオランダからの情報は常に受け取っていました。そのおかげで、ヨーロッパの大事件であるフランス革命の様子も、ほぼリアルタイムに近いかたちで伝えられていたんです。
フランス革命が始まったのは1789年。日本ではちょうど寛政期にあたります。幕府はこのころ、長崎にあるオランダ商館から定期的に「風説書(ふうせつがき)」と呼ばれる海外情勢のレポートを受け取っていました。
この風説書の中に、1791年ごろから「フランスの国内で騒動が起きている」という記述が見られるようになります。さらに1793年、ルイ16世の処刑に関する情報も伝わり、日本の知識人たちは大きな関心を寄せました。
とくに、蘭学者たちはオランダ語の文献から革命の思想や出来事を研究しはじめ、「自由」や「平等」という言葉が、日本語にどう訳されるべきかを議論していたんです。
長崎湾出島の図屏風
1836年に描かれた、川原慶賀による長崎湾の眺め。前景にはオランダの出島商館が描かれており、日本は商館を通じてフランス革命の情報を知っていた。
(出典:Creative Commons CC BY-SA 4.0より)
幕府は基本的にこうした「欧州の乱」のニュースには警戒心を強く持っていました。なぜなら、フランス革命は国王が処刑され、民衆が政権を握るという極めて危険な思想をはらんでいたからです。
一方で、蘭学を学んでいた知識人たちにとっては、革命思想は非常に刺激的でした。江戸後期の思想家・渡辺崋山や高野長英らは、西洋政治思想の紹介を通じて、日本社会にも新たな視点を持ち込もうと試みました。
とはいえ、幕府の取り締まりは厳しく、こうした議論はあくまで学問の枠にとどめられていた印象があります。自由や平等といった概念が直接的な社会運動に発展するには、まだ時代が追いついていなかったのです。
フランス革命そのものの影響は、江戸時代の間はあくまで知識人レベルのものにとどまりましたが、その思想──とくに啓蒙思想や市民意識は、やがて幕末や明治維新の志士たちに大きな影響を与えることになります。
幕末には、西洋の憲法制度や「人民の権利」といった発想が、本格的に日本の政治思想に取り入れられ始めます。福沢諭吉のような啓蒙家たちがルソーやモンテスキューの思想を紹介し、日本でも「民が主役の国家」という考え方が芽を出していくんです。
つまり、出島で知った「フランス革命」は、すぐには社会を変えなかったけれど、未来の変化への種となって日本の近代化を静かに後押ししていたわけですね。
日本がフランス革命を知ったのは、実はかなり早く、出島を通じて1790年代のうちにはすでに情報が届いていたんです。幕府は警戒を強めましたが、蘭学者や知識人たちは、そこに新しい世界の可能性を見ていました。
やがてその思想は幕末・明治の改革に活かされ、「民衆が国を作る」という理念が、日本でも現実のものとなっていくのです。遠く離れたヨーロッパの革命が、日本の近代につながっていたという事実、なんだかワクワクしませんか?
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