
フランス革命の中で「恐怖政治」という言葉が出てきますが、実際にそれを推し進めたのは誰だったんでしょうか? どんな理由でそんなに多くの人を処刑する必要があったのかも気になります。民衆の味方だったはずの革命が、どうしてこんな怖い方向に進んでしまったのか──その背景や中心人物について、詳しく教えてください。
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「自由のための革命」が、なぜギロチンが飛び交う恐怖の時代になってしまったのか――。 フランス革命の中でもとくに印象的で、そして複雑なのがこの「恐怖政治」の時期です。
その中心にいたのが、ジャコバン派のリーダー、マクシミリアン・ロベスピエール。
彼は当初、民衆の代表として大きな支持を集めていたのですが、やがて「革命を守るためには徹底的な取り締まりが必要だ」と考えるようになり、反対派を次々とギロチンにかける強硬策に出るようになります。
ロベスピエールは、もともとは法律家として活動していた人物で、民衆の自由や平等を大切にする強い信念を持っていました。フランス革命が始まると、彼はジャコバン派の代表として活躍し、「腐敗した旧体制を壊し、新しい共和国を築こう」と演説を重ねて支持を広げていきます。
でも1793年、国内外で革命に反対する勢力が強まると、彼の態度は急変。「敵を排除しない限り、革命は守れない」という考えのもと、公安委員会という組織を通じて、次々と市民や政治家、反対派を処刑していきます。
これがいわゆる恐怖政治(La Terreur)です。
わずか1年ほどの間に、ギロチンで処刑された人は数千人にものぼったといわれています。
マクシミリアン・ロベスピエールの肖像
フランス革命期のジャコバン派リーダー、マクシミリアン・ロベスピエールを描いた肖像画。恐怖政治を推進し、多くの人々をギロチンに送ったことで知られている。
(出典: Creative Commons CC0 1.0より)
なぜそこまで激しい粛清が行われたのかというと、当時のフランスはとにかく不安定で危機的な状況にあったからなんです。
国内では王政復古を望む反乱が起こり、国外からはイギリスやオーストリアなど複数の国が革命を潰そうと軍を送ってくる。そんな中、ロベスピエールは「中途半端な対応じゃ国が滅びる」と感じていたんですね。
その結果、「革命の敵」とみなされた者は、証拠が曖昧でもすぐに逮捕・裁判・処刑というスピード対応。 ジロンド派といった穏健な政治家も粛清され、ダントンやエベールなど、かつて一緒に革命を支えた仲間までがギロチンに送られていきました。
ロベスピエールの目指したのは、「腐敗のない純粋な共和国」でしたが、それを実現する手段として、恐れられる政治を選んでしまった――これが恐怖政治の本質だったと言えるかもしれません。
でも、そんな過激な方針が長く続けられるわけはありません。
次第に人々の間には「このままじゃ、自分たちまでギロチンに送られるかも…」という不安が広がり、政府内部でも「ロベスピエールを止めなければ」という声が強まっていきます。
1794年、ついに彼は仲間たちによって逮捕され、翌日にギロチンで処刑。
皮肉なことに、革命を守ろうと恐怖政治を推し進めた本人が、そのギロチンの犠牲となってしまったんです。
ロベスピエールの死によって恐怖政治はようやく終わりを迎え、フランス革命も次の段階へと移っていくことになります。
このように恐怖政治を主導したのは、革命の理想を本気で信じていたロベスピエールでした。
彼の信念は決して間違ったものではなかったかもしれません。でも、それを守るために取った方法はあまりにも過激で、ついには民衆や仲間からも恐れられる存在になってしまいました。
フランス革命の中でもこの時期は、理想と現実のバランスがいかに難しいかを教えてくれる、重たいエピソードなんです。
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