フランス革命の立役者といえば?

フランス革命の立役者といえば?

フランス革命の立役者には、ミラボーやロベスピエール、ダントンなどの政治家がいる。彼らは議会や街頭で影響力を発揮し、革命の進路を左右したのである。本ページでは、フランス革命を推進した人物たちを理解する上で重要なこのテーマについて、さらに詳しく掘り下げ解説していく。

フランス革命にはたくさんの有名人が登場しますが、「この人がいなかったら革命は動かなかった」と言えるような、まさに“立役者”って誰なんでしょうか? ロベスピエールやマラー、ラファイエットなどいろんな名前を見かけますが、その中でも特に民衆を動かし、歴史を変えるきっかけをつくった人物について、背景も含めて詳しく教えてほしいです!



フランス革命の歴史を振り返ると、次々に登場する政治家や思想家たちが、いろんなかたちで革命を動かしていったことがわかります。でもその中でも、「立役者」と呼ぶにふさわしい強烈な存在感を放っていたのが、ジョルジュ・ダントンという人物です。


民衆の支持を集める演説力と、政治をまとめあげる手腕をあわせ持ち、まさに行動の人としてフランス革命の初期をけん引した彼。その存在なくして、王政の終焉や共和制の実現は語れないと言われています。


ジョルジュ・ダントンは民衆を動かす“声”だった

ダントンが活躍し始めたのは、フランス革命が本格化しつつあった1792年前後。当時、国王ルイ16世はまだ在位中でしたが、政治は混乱し、国内外で革命への反発も強まっていました。


そんな中でダントンは、革命派の民衆を力強く鼓舞する演説のカリスマとして頭角を現します。
特に有名なのが、1792年8月に起きた八月十日事件(テュイルリー宮殿襲撃)。彼の熱弁に煽られた民衆が宮殿に押し寄せ、国王一家を捕らえたこの事件は、王政崩壊の引き金となりました。


ただ怒りをぶつけるだけでなく、ダントンはその後、公安委員会の初代議長としても活躍。国内の混乱を抑えようと奔走し、臨時政府のような役割を果たしました。


ジョルジュ・ダントンの肖像

ジョルジュ・ダントンの肖像
フランス革命期の立役者であるジョルジュ・ダントンの肖像画。民衆を扇動して八月十日事件(テュイルリー宮殿襲撃)を引き起こしたことで知られる。
(出典:Creative Commons Public Domainより)


情熱だけじゃない、現実路線の政治家だった

ダントンは、ロベスピエールやマラーのような急進的な思想家とは少し異なり、実務的な政治家タイプでした。民衆の怒りを理解しつつも、「無制限の粛清」には疑問を持っていたようで、恐怖政治が進む中ではやや穏健な立場に回ります。


たとえば、外交では「敵国とも和平交渉をするべきだ」と主張し、戦争の拡大を避けようとしたこともありました。
また、処刑や弾圧を「必要以上にやるのはよくない」とブレーキをかけようとしたことで、しだいにロベスピエールら急進派との間に溝が生まれていきます。


つまりダントンは、民衆の側に立ちながらも、現実的な着地点を模索していた人物だったんですね。


ロベスピエールとの対立、そして悲劇の最期

ダントンが政治の中心にいたのはほんの数年でしたが、その影響力は絶大でした。
しかし、恐怖政治がエスカレートしていく中で、「穏健派」となったダントンは、もはや“革命の敵”と見なされるようになります。


1794年、ロベスピエールの指示によってダントンは逮捕され、「革命の理想を裏切った」としてギロチンで処刑されてしまいます。
享年34歳という若さでした。


その死は多くの人に衝撃を与え、「革命が革命家を殺す時代」に突入したことを象徴する出来事でもありました。彼の最後の言葉「私は革命をつくったが、それに殺された」は、今でも語り継がれています。


このように、ジョルジュ・ダントンは民衆の声を代弁し、実際に行動で革命を前進させた立役者でした。


彼の存在があったからこそ、王政は倒れ、フランスは共和制へと進むことができたとも言えます。
情熱と現実のバランスをとりながら、混乱の中に秩序をもたらそうとしたその姿は、フランス革命を語る上で欠かせない一人なんです。