
1789年に始まったフランス革命は、王政が崩れて共和制が生まれるという、とんでもなく大きな変化をもたらしました。でも実は、その激動の時代の裏側には、ちょっと笑ってしまうような出来事や「えっ、そんなことが?」と驚くエピソードもたくさん隠れているんです。たとえばマリー・アントワネットの「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」発言の真相や、革命期に流行したちょっと奇抜なファッションなど。こうした歴史書にあまり載らない小話を知ると、フランス革命がグッと身近に感じられるかもしれません。ここからは、そんな革命の「裏側」に迫ってみましょう。
バスティーユ襲撃
フランス革命の始まりを象徴する「バスティーユ牢獄襲撃事件」を描いた絵画
(出典:Creative Commons Public Domainより)
1789年7月14日、パリ市民が襲撃したバスティーユ牢獄ですが、実はその日牢にいた囚人はたった7人しかいなかったんです。しかも中身を見てみると、国家を揺るがすような政治犯が大勢いたわけではありません。精神疾患を抱えて家族の都合で収監されていた人や、文書改ざんといった比較的軽い罪で投獄された人も含まれていました。
では、なぜバスティーユがここまで人々の怒りの的になったのでしょうか。
ポイントは「象徴性」です。
バスティーユは絶対王政時代、国王が気に入らない人物を裁判なしで幽閉できる「王権の横暴の象徴」とされてきました。だからこそ、囚人の数や罪状は関係なく、「圧政を打ち破った」という市民の気持ちが大きな意味を持ったのです。
この襲撃は後に「フランス革命の始まり」として記憶され、現在も7月14日がフランスの革命記念日として祝われています。つまり、実際の出来事そのものよりも、そこに込められた象徴性こそが歴史を動かす大きな力になったんですね。
フランス革命暦のカレンダー
1793年から1805年まで使用されたフランス革命暦。グレゴリオ暦からの脱却を図り、新たな時代の始まりを象徴する暦である。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
フランス革命では、旧体制を徹底的に否定する象徴として「革命暦」が登場しました。一年を12か月に分け、それぞれを30日で区切るという、かなり大胆な仕組みです。さらに週の概念をなくして10日ごとに区切る「デカディ制」を導入し、教会で日曜日ごとに礼拝するリズムを壊そうとしました。つまり、この暦は「人々の生活からキリスト教の痕跡を一掃する」ことを目的にしていたんです。
各月には「葡萄月(ヴァンデミエール)」や「霜月(フリメール)」など、自然や農業にちなんだ名前が付けられました。これは「自然に根ざした社会を築きたい」という革命思想の表れでもあります。ただし、日常生活のリズムとしては不便で、10日に一度の休みでは労働者が疲弊したり、国際交流でもグレゴリオ暦と合わずに混乱が生じたりしました。
結局、革命暦は1806年にナポレオンの命令で廃止されます。わずか10数年という短命に終わりましたが、宗教や伝統を切り離し、人間社会を「理性と自然」に基づいて再編しようとした試みとして、革命の精神を象徴する出来事だったといえるんです。
マリー・アントワネットの処刑、1793年10月16日
恐怖政治下での処刑が行われたマリー・アントワネットの最後の瞬間を描いた絵画。フランス革命の激動の時期を反映した作品。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
恐怖政治の象徴として知られるギロチンですが、その誕生の背景には意外にも「人道的な処刑」を目指す思想がありました。考案を提案したのは、当時の医学博士ジョセフ=イグナス・ギヨタン。彼は拷問のように長引く苦しみを伴う従来の処刑方法――斧や剣による斬首、車裂き、火あぶりなど――を問題視し、「誰もが迅速で苦痛の少ない形で死を迎えるべきだ」と主張しました。
この発想は「人間は生まれながらに平等」という革命の理念とも響き合います。貴族も平民も、同じ方法で命を絶たれる。つまりギロチンは、ある意味で「平等の象徴」でもあったのです。実際、導入当初は「人道的で近代的な道具」として肯定的に受け止められた面もありました。
ところが現実には、恐怖政治の中で大量処刑の道具として乱用され、ギロチンのイメージは一気に「恐怖と血の象徴」へと変わってしまいます。皮肉なことに、この道具を世に知らしめたギヨタン博士本人は処刑されることはありませんでしたが、彼の名は「ギロチン」という言葉に結びつき、後世に残ることとなりました。人道のために考案された器具が、結果的には恐怖の代名詞になってしまったわけです。
ルイ16世の処刑
1793年、フランス革命中のパリ、ラ・コンコルド広場で行われたルイ16世のギロチンによる処刑を描いた絵画。絶対王政の終焉を告げる象徴的な出来事。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
恐怖政治の時代、ギロチン処刑は単なる刑罰の場を超えて、一般市民にとって一種の「公開イベント」のような性格を持っていました。広場には毎日のように見物人が集まり、処刑が始まると歓声やざわめきが沸き起こったといいます。中には子どもを連れてくる親もいて、処刑の見学が「教育の一部」と受け止められることすらありました。
処刑が行われる広場の周辺には屋台や露店が並び、ワインやパンが売られるなど、まるでお祭りのような雰囲気になることもありました。ギロチン自体が「平等な死」を与える道具として導入されたこともあり、人々はこれを「革命の正義が実行される瞬間」として熱狂を込めて見守ったのです。
とはいえ、この光景は当時の社会が抱えていた極度の緊張と不安を裏返しにしたものでもありました。飢餓や戦争、裏切りへの恐怖が渦巻く中で、人々は処刑を通じて「正義が保たれている」という安心感を得ようとしていたのかもしれません。つまり、娯楽の側面と同時に、これは不安な時代の精神的はけ口でもあったのです。
マリーアントワネット/1775年
若き日のマリーアントワネットを描いた肖像画。フランス革命時には、彼女の豪華な生活様式が特権階級の象徴とされた。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
マリー・アントワネットの代名詞のように語られる「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」というセリフ、実は彼女自身の言葉ではない可能性がとても高いんです。もともとこの一文が登場するのは、哲学者ジャン=ジャック・ルソーの著書『告白』の中。そこでは「大貴婦人が、パンがなければブリオッシュを食べればいい」と言ったと記されていて、特定の人物名は挙げられていません。
ところが、革命期に民衆の憎しみを一身に集めていた王妃に、この冷酷そうな言葉が重ねられてしまったんです。結果として、アントワネットは「民衆の苦しみを理解しない贅沢な王妃」というイメージが決定づけられました。実際には、彼女がそんな発言をした記録はなく、むしろ困窮する孤児や病人のために寄付をしたり、庶民に同情的な行動をとったエピソードも残されています。
つまり、この言葉は「王妃を悪役に仕立てるためのプロパガンダ」として利用された面が強いんですね。史実とは異なっていても、人々の怒りを煽るには十分な効果があったわけです。
フランス革命の主体となったサン・キュロット
サン・キュロットの一員が槍を持つ姿を描いた1793-1794年の作品。フランス革命を背景に、彼らは革命的変革を推進し、社会的平等を訴えた。
(出典:Creative Commons Public Domainより)
サン=キュロット(膝丈のズボンをはかない人々)は、まさに革命期の庶民の象徴でした。当時、貴族や富裕層は膝丈のキュロットと白いストッキングを着用するのが伝統的な正装。一方で労働者や職人などの庶民は動きやすい長ズボンを身につけていました。そのため「サン=キュロット」という呼び名は、単なる服装の違いを超えて貴族への対抗意識を示すものになったんです。
彼らは単なる服装の選択でなく、「自分たちは特権階級とは違う、平等を求める側に立つ」という政治的メッセージを込めて長ズボンを履きました。このスタイルはやがて革命家たちの間でブームとなり、国会やクラブに集まる活動家たちもこぞって真似をするようになります。つまり、サン=キュロットは政治的ファッションの先駆けともいえる現象だったんですね。
さらに彼らは、服装だけでなく言葉遣いや態度にも「庶民らしさ」を強調しました。敬称を避けて「市民(シトワイヤン)」と呼び合ったり、過度な礼儀を拒否したりするなど、生活の隅々にまで「平等のアピール」を徹底したのです。こうした文化的な主張は、単なる流行にとどまらず、フランス革命の大衆運動のエネルギーそのものを象徴する存在となりました。
以上、フランス革命の雑学と面白裏話についての解説でした!ただの雑学や面白裏話からも、フランス革命はただの政治運動ではなく、日常生活にも深く影響を及ぼしたことがよくわかりますね。以下でフランス革命の雑学・面白裏話系の一問一答をまとめていますので、さらに詳しく知りたいという方は参考にしてみてください。
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