フランス革命の中心人物・関係者

フランス革命の中心人物・関係者

フランス革命は多くの政治家、思想家、軍人によって推進された。旧体制打破の理念を掲げた者と、権力闘争に挑んだ者が交錯したのである。本ページでは、フランス革命に関わった主要人物を理解する上で重要なこのテーマについて、さらに詳しく掘り下げ解説していく。

フランス革命期にはどのような人物が活躍、または関係していたのか?

フランス革命って、本当にいろんな人が入り乱れて動いていった大事件なんです。王様や王妃が舞台の中心にいたかと思えば、熱い理想を掲げる革命家たちや、戦場で活躍する軍人、さらには学者や科学者まで顔を出してきます。王政の終わりから共和政の誕生、そして社会の大きなひっくり返しまで、一人ひとりの行動が大きな歯車になっていたんですね。じゃあ、その人たちがどんな役割を果たして、フランスだけじゃなく世界にどんな影響を残したのか――これからじっくり見ていきましょう。


このページの目次


王族

Louis XVI by Antoine-François Callet, 1788

ルイ16世(1754–1793)/アントワーヌ=フランソワ・カレ作
(出典:Creative Commons Public Domainより)


名前 生没年 立場 影響 末路
ルイ十六世 1754年 - 1793年 フランス王 フランス革命の引き金となる政治的・経済的危機の中心人物 ギロチンで処刑
マリー・アントワネット 1755年 - 1793年 フランス王妃 王政の象徴として革命家に批判される ギロチンで処刑
ルイ十七世 1785年 - 1795年 ルイ16世とマリー・アントワネットの次男 革命中、王位継承者として象徴的存在 獄中で病死
ルイ十八世 1755年 - 1824年 フランス王(1814年復位) ナポレオンの失脚後、復位し王政復古を実現 天然痘で死去
シャルル十世 1757年 - 1836年 フランス王(1824年即位) 保守的な政策で旧体制復活を試みる 七月革命で退位し、亡命


フランス革命のど真ん中にいたのがルイ16世(1754 - 1793)です。彼は「絶対王政そのもの」っていう存在でしたが、革命が始まったころには何とか議会と折り合いをつけようとしました。でも結局は民衆や政治の流れに取り残されてしまって、孤立したまま1793年に処刑されてしまいます。


そして、その妻であるマリー・アントワネット(1755 - 1793)。華やかで豪華な暮らしぶりが、貧しい国民の生活と比べられて「浪費の象徴」として批判の的になりました。彼女もまた処刑され、「フランス革命に呑み込まれた悲劇の存在」として歴史に名を残すことになったんです。


ルイ16世は、最後の王としてではなく、共和政を迎える前夜の混乱の象徴ともなった人物といえます。


革命家

Maximilien Robespierre

マクシミリアン・ロベスピエール(1758–1794)
フランス革命期のジャコバン派リーダー、マクシミリアン・ロベスピエールを描いた肖像画。恐怖政治を推進し、多くの人々をギロチンに送ったことで知られている。
(出典: Creative Commons CC0 1.0より)


名前 生没年 立場 影響 末路
マクシミリアン・ロベスピエール 1758年 - 1794年 ジャコバン派リーダー 恐怖政治の主導者として知られる 公開処刑(ギロチン)
ジョルジュ・ダントン 1759年 - 1794年 革命初期の指導者 革命政府の確立に貢献 政敵により処刑(ギロチン)
ジャン=ポール・マラー 1743年 - 1793年 ジャコバン派、新聞「人民の友」の発行者 民衆の支持を集め、急進的な記事で影響力を持つ シャルロット・コルデーによって暗殺
カミーユ・デムーラン 1760年 - 1794年 革命家、ジャーナリスト 革命の理念を広めるための新聞記事を多数執筆 ロベスピエールとの意見の相違により処刑(ギロチン)
ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト 1767年 - 1794年 ジャコバン派の重要人物 恐怖政治を支持し、革命政府の政策を強化 ロベスピエールと同日に処刑(ギロチン)


革命の流れを一気に加速させたのがマクシミリアン・ロベスピエール(1758 - 1794)です。彼は「人間と市民の権利の宣言」に込められた理想を実現しようと燃え上がり、その結果として有名な「恐怖政治」を押し進めました。でも、その徹底ぶりが裏目に出てしまい、仲間からも見放され、最後は自分自身も処刑されることになります。まさに革命の激しさと混乱を体現した人物といえるでしょう。


一方でジョルジュ・ジャック・ダントン(1759 - 1794)は、革命初期に頼れるリーダーとして頭角を現し、特に革命裁判所の設立を後押ししたことで知られています。ただし、彼もロベスピエールとぶつかってしまい、結局は処刑の道をたどることに。とはいえ、混乱の中で革命を初期段階から支えた存在として、今でも強い印象を残しています。


反革命家

Charlotte Corday by Jean-Jacques Hauer

『シャルロット・コルデー』/ジャン=ジャック・オーダン作
ジャン=ポール・マラーを暗殺したシャルロット・コルデーを描いた絵画。
(出典:Creative Commons Public Domainより)


名前 生没年 立場 影響 末路
エミール・アルマンド・ド・ビルード 1756年 - 1794年 王党派指導者 フランス革命に反対し、王党派の組織化を図る ギロチンで処刑
シャルル・ピシグリュー 1761年 - 1804年 将軍、王党派の陰謀者 外国の支援を求めて革命政府に対抗 ナポレオンによる逮捕後、獄中で自殺
フランソワ・アンリ・ド・ラ・ロシュフコール 1765年 - 1794年 王党派の軍人 ヴァンデ戦争で反革命軍を率いる 戦闘中に死亡
ジャン=シャルル・ポールタール・デ・ボルデ 1767年 - 1793年 王党派の指導者 ヴァンデ地方で革命政府に反抗 ギロチンで処刑
ルイ・ド・ブルボン=コンデ 1736年 - 1818年 プランス、王党派の軍指揮官 亡命貴族の軍を組織しフランス革命に反対 亡命後、オーストリアで自然死
シャルロット・コルデー 1768年 - 1793年 ジロンド派 ジャコバン派の急進的な政策に反対し、ジャン=ポール・マラーを暗殺 暗殺行為の後、ギロチンで処刑


反革命の象徴的な存在として知られているのが、シャルロット・コルデー(1768 - 1793)です。彼女は、急進的な革命家だったジャン=ポール・マラーを暗殺したことで、一躍有名になりました。「恐怖政治」に対する強い反発から動いたとされていますが、その行動はかえって革命内の対立を深める結果にもなってしまいました。まさに、革命の熱狂の中に投げ込まれた悲劇の人物なんですね。


そしてもう一つ、反革命の動きの中で重要なのがエミグレ貴族たちの存在です。革命の混乱から逃れるために国外へと亡命し、外から革命を潰そうと画策していたんです。オーストリアやプロイセンといった国々の支援を受けて、フランスに王政を取り戻そうとしたこの動きは、のちの対仏大同盟の形成にもつながっていきます。


軍人

ナポレオン・アルプス越え

ナポレオン・アルプス越え、ジャック=ルイ・ダヴィッド作
軍人としてのナポレオンの強力なリーダーシップと戦略的才能を象徴する肖像画。
(出典:Creative Commons Public Domainより)


名前 生没年 立場 影響 末路
ナポレオン・ボナパルト 1769年 - 1821年 軍人、後にフランス皇帝 多数の戦勝を収め、最終的に政治権力を掌握 セントヘレナ島で死去
ジャン=バティスト・ジュールダン 1762年 - 1833年 フランス革命軍の将軍 フランス革命戦争で重要な役割を果たす 没後、名誉を持って死去
ラザール・カルノー 1753年 - 1823年 数学者、軍事エンジニア、政治家 フランス軍の組織化と強化に貢献 自然死
シャルル・フランソワ・デュムリエ 1739年 - 1823年 将軍、外交官 フランス革命初期の主要な戦勝に貢献 亡命後、自然死
フランソワ・クリストフ・ケラーマン 1735年 - 1820年 将軍 ヴァルミーの戦いでの勝利が有名 没後、名誉を持って死去


革命の嵐の中からぐいっと飛び出してきたのが、ナポレオン・ボナパルト(1769 - 1821)です。若くして軍人として名を上げ、革命戦争では次々と勝利を重ねていきました。その勢いのまま政界にも進出し、ついにはフランス第一帝政の皇帝にまで上りつめます。ナポレオンの登場によって、長く続いた革命の時代は一区切りつき、フランスは新たな帝政の時代へと突入することになるんですね。


そして、もっと早い段階で革命に大きく関わっていたのがラファイエット侯爵(1757 - 1834)。アメリカ独立戦争で自由と民主主義の理想を肌で感じてきた人物で、フランスに帰国してからは国民衛兵を率いて革命の安定に尽力しました。でも、穏健な立場をとったことが逆に災いして、どっちつかずと見られてしまい、急進派からの批判を浴びて失脚してしまいます。まさに時代に飲み込まれた理想主義者だったんです。


科学者

ラヴォアジエと彼の妻の肖像

ラヴォアジエと彼の妻の肖像/ジャック=ルイ・ダヴィッド作、1788年
化学の実験を行うラヴォアジエと彼の妻を描いた絵画。科学への貢献と共に、恐怖政治下での処刑の運命を予感させる象徴的な作品。
(出典:Creative Commons Public Domainより)


名前 生没年 立場 影響 革命への関与
アントワーヌ・ラヴォアジエ 1743年 - 1794年 化学者 近代化学の父とされ、質量保存の法則を定義 税関の農業貢献者として活動、革命的政策に反対し、財政改革に取り組むも、革命政府によりギロチンで処刑される
ジャン・バティスト・ジョセフ・フーリエ 1768年 - 1830年 数学者、物理学者 フーリエ級数と熱伝導の理論を開発 エジプト遠征に参加、ナポレオンの科学アカデミーのメンバーとして活動
ピエール=シモン・ラプラス 1749年 - 1827年 数学者、天文学者、物理学者 確率論および天体力学に多大な貢献 革命政府の下で科学アカデミーの委員として活動
ジョゼフ・ルイ・ゲイ=リュサック 1778年 - 1850年 化学者、物理学者 ガスの法則(ゲイ=リュサックの法則)を発見 革命後の学界で活躍、政府からの支援を受けて研究を進める
クロード・ベルトレ 1778年 - 1862年 農学者、化学者 農業化学の先駆者として土壌の研究を行う 革命期に公職を拒否し、独立して研究を続ける
ジャン=シルヴァン・バイイ 1746年 - 1793年 天文学者 太陽黒点の研究と天体観測の方法の改善に寄与 フランス科学アカデミーのメンバーとして活動、しかし革命の混乱中にギロチンで処刑


革命の時代を語るうえで、政治家や軍人だけじゃなく、科学者たちの存在も見逃せません。中でも忘れちゃいけないのが、アントワーヌ・ラヴォアジエ(1743 - 1794)です。彼は「近代化学の父」と呼ばれるほどの天才で、化学の世界を根本から変えた人なんですが、当時は税の徴収官としても働いていたため、革命の流れの中で標的になってしまいます。結局、1794年に処刑されてしまったんです。その最期は、革命の理想と現実のギャップ、そして混乱の象徴ともいえるかもしれません。


そしてもうひとり、科学者にして政治家という異色の存在だったのが、ジャン=シルヴァン・バイイ(1736 - 1793)です。天文学者としても有名なバイイですが、革命のはじまりには「テニスコートの誓い」に参加し、パリ市長にもなりました。ただ、彼もまた時代の流れに巻き込まれ、粛清によって命を落とすことになります。理性や知性が尊ばれるべき時代に、知の象徴であった彼らが処刑されてしまったというのは、なんとも皮肉な話ですよね。


以上、フランス革命の中心人物・関係者についての解説でした! 「フランス革命は多くの人物が絡み合い、歴史の流れを大きく変えた壮大な事件だった。」という点を抑えておきましょう!以下でフランス革命関係者に関する一問一答をまとめていますので、さらに詳しく知りたいという方は参考にしてみてください。